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【昭和の記憶】昭和の食卓——お袋の味・インスタント食品の登場・外食が特別だった時代のはなし

朝5時半。 台所からお母さんの包丁の音が聞こえてきます。 まな板の上でトントントンと刻む音、油の温まる匂い、味噌汁の湯気。 昭和の朝は、台所の音で始まりました。 あの匂いと音が、今でも記憶の奥底に残っている方は多いのではないでしょうか。 昭和の食卓 昭和の食卓を語るうえで、まず押さえておきたいことがあります。 冷凍食品がほとんどなかった時代、電子レンジも普及していなかった時代、外食も今ほど手軽ではなかった時代——昭和の家庭の食事は、ほぼすべてお母さんの手作りで成り立っていました。 朝ごはんはご飯に味噌汁、焼き魚か卵焼き、漬物。 お弁当は前日の残りのおかずを詰め直して、足りない分は朝に作り足す。 夕食はその日の特売品や残り物を組み合わせた、即興の献立。 献立を考えるのも、食材を調達するのも、調理するのも、片付けるのも——すべてお母さん一人の仕事でした。 家族のために毎日三食を用意することが、当たり前とされていた時代です。 スーパーマーケットが普及し始めたのも昭和の出来事ですが、昭和30年代から40年代にかけてはまだ、八百屋、魚屋、肉屋と個人商店をはしごして食材を買うのが普通でした。 商店街のおじさんやおばさんとの会話が、毎日の買い物に組み込まれていた。 今のネットスーパーとは、まるで別の世界の話です。 昭和の家庭料理といえば、まず肉じゃがです。 醤油と砂糖で甘辛く煮た肉じゃがは、昭和の食卓の定番中の定番でした。 じゃがいも、にんじん、玉ねぎ、豚肉か牛肉——家によって具材と味付けが微妙に違う。 よその家に遊びに行って夕食をご馳走になると、「うちのと味が違う」と気づく。 その違いが、お袋の味というものの正体です。 コロッケも昭和の家庭料理の花形でした。 じゃがいもを茹でてつぶして、炒めた玉ねぎとひき肉を混ぜて、形を作って、パン粉をつけて揚げる。 今なら惣菜コーナーで百円ちょっとで買えるものを、お母さんは一から手間をかけて作っていた。 揚げたてのコロッケが食卓に並ぶ日は、子どもたちにとってちょっとした祝祭でした。 ほかに昭和の食卓に欠かせなかったものといえば、切り干し大根の煮物、ひじきの煮物、卯の花。 今では「地味なおかず」と言われるようなものが、毎日の食卓に並んでいました。 カルシウムや食物繊維が豊富な、栄養的にも優れた料理ばかりです。 当時の子どもたちはそのありがたさを...

【昭和の記憶】昭和の病院——注射・赤チン・往診に来たお医者さんのはなし

病院の廊下に、長い列ができていました。 順番を待つ間、消毒液の匂いが鼻をつく。 診察室のドアが開くたびに、子どもたちがびくりと体を縮める。 あの頃の病院には、独特の緊張感がありました。 そして、それ以上の温かさも。 昭和の病院 昭和の病院と今の病院で、まず違うのは予約システムです。 今は多くの病院でインターネット予約ができ、待ち時間も事前にある程度わかります。 昭和にそんなものはありません。 朝早くから病院へ行き、受付に診察券を出して番号札をもらう。 その番号が呼ばれるまで、廊下の長椅子に座って待つ。 待ち時間は平気で二時間、三時間ということがありました。 具合が悪い体を引きずって病院まで来て、さらに何時間も待たされる。 それでも文句を言う人は少なかった。 「病院とはそういうものだ」という認識が、当時は共有されていたからです。 診察室の中には、白衣を着た医師が一人。 聴診器を当てて、喉を診て、お腹を触って、「はい、わかりました」。 今のようにコンピューターの画面を見ながら説明するのではなく、医師が直接患者の体を診る。 その分、医師と患者の距離が近く、顔と顔を向き合わせた診察が行われていました。 昭和の病院で、子どもたちが最も恐れていたもの??それが注射です。 注射が怖くない子どもなど、ほとんどいませんでした。 診察室に入る前から「注射はしますか」と親に聞き、「しないよ」と言われてほっとして、でも結局注射になって大泣きする。 そういう子どもが、病院の廊下には必ずいました。 昭和の注射には、今と大きく違う点がありました。 注射器の使い回しです。 現在は注射器を一人ひとりに使い捨てにするのが当たり前ですが、昭和の時代、特に昭和30年代から40年代にかけては、注射器を消毒して複数の患者に使い回すことが行われていました。 針を熱湯消毒したり、アルコールで拭いたりして再利用する。 感染症リスクという観点では問題がありましたが、当時はそれが標準的な医療行為でした。 注射の後は、アルコールを含ませた脱脂綿で針を刺した場所を押さえて、「はい、終わり」。 泣いていた子どもに看護婦さんが「よく頑張ったね」と声をかける。 注射に耐えた後の、あの解放感は格別でした。 集団予防接種も、昭和の子どもたちの記憶に残るものです。 学校の体育館や講堂に全校生徒が集められ、順番に腕をまくって注射を受ける...

【昭和の記憶】昭和の学校——怖い先生・鉄拳制裁・あの頃の教室のはなし

教室の後ろに、バケツを持って立たされている同級生がいました。 廊下に正座させられている上級生もいた。 職員室から、先生の怒鳴り声が聞こえてくることも珍しくなかった。 昭和の学校は、今とはまったく違う空気が流れていました。 昭和の学校生活 昭和の小中学校を振り返ると、まず建物が違います。 木造の校舎がまだ残っている学校もあり、廊下を走ると床がギシギシと鳴った。 窓は単板ガラスで、冬は教室の中でも息が白くなる。 石炭ストーブが教室の真ん中に置いてあって、当番の子どもが火をつけるところから一日が始まる学校もありました。 冷暖房などありません。 夏は窓を全開にして、扇風機が一台あればいいほう。 体育館には暖房がなく、真冬の朝礼で貧血を起こして倒れる子どもが続出する。 それでも「根性が足りない」と言われる時代でした。 教室の机と椅子は木製で、天板には歴代の先輩たちが彫った落書きが残っていた。 黒板は本物の黒板で、チョークの粉が常に漂っている。 チョークを叩きつけて注意する先生、黒板消しを投げてくる先生??そういう光景が普通にありました。 昭和の学校を語るうえで、避けて通れないのが先生の話です。 当時の先生の中には、今の基準では到底許されない指導をする方がいました。 授業中に居眠りをしたら、チョークが飛んでくる。 宿題を忘れたら廊下に立たされる。 忘れ物が多い子は、頭をげんこつで叩かれる。 ひどい場合には、竹刀や木刀を持って校内を歩く先生もいました。 体罰は、当時は「愛のむち」という言葉で正当化されていました。 「先生に叩かれるのは、それだけ期待されているから」という理屈が、親の間でも共有されていた。 先生に叩かれて帰宅した子どもに、親が「何をしたんだ、お前が悪い」と言う。 先生の側に立つのが、当時の親の常識でした。 ただ、怖い先生の中にも、子どもたちから本当に慕われていた先生がいました。 厳しいけれど、困ったときには真剣に相談に乗ってくれる。 叱るときは叱るが、認めるときはしっかり認めてくれる。 そういう先生の怒鳴り声は、不思議と子どもの心に残り続けるものでした。 怒鳴り声と怖い顔しか覚えていないはずなのに、何十年経っても名前を覚えている先生がいる。 それは、その先生が本気で子どもに向き合っていたからかもしれません。 昭和の授業の風景も、今とは違います。 授業の始まりは、日直...

【昭和の記憶】昭和の旅行-社員旅行・家族旅行・修学旅行のはなし

旅行の前の夜は、なぜかなかなか眠れませんでした。 枕元に明日の準備をした荷物を置いて、何度も確認する。 カメラにフィルムは入っているか。 小遣いは財布に入れたか。 昭和の旅行には、出発前からすでにわくわくがありました。 まず、昭和の旅行がどんなものだったか、全体像をお話しします。 現在、旅行に行くときはスマートフォンで目的地を調べて、ホテルを予約して、乗り換えを検索して??すべてが手のひらの中で完結します。 昭和はまったく違いました。 旅行といえば、まず旅行代理店の窓口へ行くことから始まります。 日本交通公社、近畿日本ツーリスト??そういった旅行会社の窓口に出向いて、担当者と相談しながらプランを決めていく。 地図は紙の地図。 時刻表は分厚い本。 国鉄の時刻表は電話帳のように厚く、それをめくりながら乗り継ぎを調べるのも旅の準備のひとつでした。 写真はフィルムカメラで撮る時代ですから、一本のフィルムで撮れる枚数は24枚か36枚。 シャッターを押すたびに「これは撮る価値があるか」と真剣に考える。 撮った写真がどう写っているかは、現像するまでわからない。 旅から帰って、写真屋でフィルムを現像してもらい、一週間後に仕上がった写真を受け取る瞬間のドキドキは、今では味わえないものでした。 昭和の旅行 昭和の旅行で、まず外せないのが社員旅行です。 年に一度か二度、会社全体あるいは部署単位で温泉地へ行く。 熱海、箱根、伊豆、草津??全国の温泉地が、社員旅行の団体客で賑わっていた時代です。 社員旅行は、建前上は任意参加でしたが、実際には断れない雰囲気がありました。 「今年の社員旅行、行けそうにありません」などと言えば、上司の顔色が変わる。 若手社員は特に、参加することが当然とされていました。 旅行先でも、会社の上下関係はそのままです。 温泉旅館の大広間に全員が集まって、上座に部長や課長が座り、下座に若手が並ぶ。 お酒が入っても、上司への気遣いは欠かせない。 「部長、もう一杯いかがですか」とお酌をして回るのが若手の仕事でした。 部屋割りも今とは違います。 一部屋に四人、五人が一緒に泊まるのが普通でした。 上司と同じ部屋になることもあり、夜中まで仕事の話や人生訓を聞かされる、という経験をした方も多いのではないでしょうか。 それでも、社員旅行には独特の楽しさがありました。 宴会の余興で普段は...

【昭和の記憶】バブル前夜、サラリーマンたちの残業と夢

夜の10時。 東京・丸の内のオフィスビルには、まだ煌々と明かりがついていました。 窓の向こうで、ネクタイを緩めたサラリーマンたちが、書類の山と格闘している。 でも、その顔には不思議と暗さがなかった。 「頑張れば、必ず報われる」??誰もがそう信じていた時代の話です。 サラリーマンたちの残業と夢 昭和60年、1985年前後の日本を振り返りましょう。 前回お話しした昭和50年代のテレビの時代から、さらに10年が経っています。 日本経済は力強く成長を続け、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という言葉がアメリカの本のタイトルになるほど、日本の存在感が世界で高まっていた時代です。 街を歩けば、新しいビルが次々と建っていく。 求人誌には仕事があふれ、就職活動をすれば複数の企業から内定がもらえる。 給料は毎年上がり、ボーナスも右肩上がり。 「来年は今年より豊かになる」ということを、誰もが疑わなかった。 そんな空気の中で、サラリーマンたちは働いていました。 1985年にはプラザ合意があり、円高が急速に進みます。 輸出企業は打撃を受けましたが、日本国内の景気は過熱していく一方でした。 そしてこの数年後、日本はバブル景気の絶頂を迎えることになります。 昭和60年代のサラリーマンの一日は、今とまるで違いました。 朝8時半に出社して、夜は10時、11時まで働くのが当たり前。 残業代が出る会社もあれば、出ない会社もある。 それでも誰も文句を言わなかった。 なぜか。 残業することが、仕事への誠意を示すことだったからです。 定時に帰る社員は「やる気がない」と見られる。 上司より先に席を立つことは、暗黙のルール違反。 仕事が終わっていても、上司が残っている限りは帰れない。 そういう職場が、日本中にありました。 残業の多さを、むしろ誇りに思う空気すらありました。 「俺は今月100時間残業した」という言葉が、武勇伝のように語られる。 今の感覚では信じられませんが、それが昭和の職場のリアルでした。 書類はすべて手書きかタイプライター。 コピーを一枚取るにも手間がかかる。 計算はそろばんか電卓で、一つひとつ手で確認する。 今ならパソコンで数分でできる作業に、何時間もかけていた。 それが残業の長さにも直結していました。 昭和のオフィスの風景は、今とまったく異なります。 まず、タバコです。 オフィスの中で、普通に...

【昭和の記憶】家族でカラーテレビを囲んだ夜のはなし

夕方6時になると、お母さんが台所で夕食の準備を始める。 お父さんが会社から帰ってくる音がする。 子どもたちはテレビの前に陣取って、チャンネルをめぐって言い合いをしている。 昭和の夜は、一台のテレビを中心に動いていました。 昭和の夜は、一台のテレビを中心に動いていました。 カラーテレビが日本の家庭に普及し始めたのは、1970年代のことです。 1964年の東京オリンピックがきっかけで白黒テレビが急速に普及しましたが、その後カラー放送が始まり、カラーテレビへの買い替えが進んでいきました。 1975年(昭和50年)頃には、一般家庭へのカラーテレビの普及率がほぼ90パーセントを超えます。 ただし、テレビは一家に一台の時代です。 子ども部屋にテレビがあるなど、考えられない話でした。 テレビはリビングに一台だけ テレビはリビングに一台だけ。家族全員が同じ部屋に集まって、同じ番組を見る。 それが昭和の夜の、当たり前の光景でした。 テレビそのものが、まだ高価な家電でした。 画面が壊れると修理に出して、修理されて戻ってくるまでの間、家の中がどこか寂しくなる。 テレビがそれほど、生活の中心にあったんです。 テレビが一台しかないということは、何を見るかをめぐって家族で争いが起きるということです。 チャンネル争いは、昭和の家庭における日常の風物詩でした。 子どもはアニメを見たい。 お父さんはプロ野球中継を見たい。 お母さんはドラマを見たい。 リモコンが普及する前は、テレビのそばまで行ってダイヤルを回してチャンネルを変えていました。 そのダイヤルを誰が握るか、それ自体が権力の問題でした。 たいていの場合、最終的な決定権はお父さんにありました。 「今日はナイター見るぞ」とお父さんが言えば、子どもたちは渋々あきらめる。 その代わり、週に一度だけ子どもが見たい番組を優先してもらえる、という暗黙のルールがある家庭も多かったようです。 チャンネル数も今とはまったく違います。 昭和50年代の地方では、映るチャンネルが三つか四つしかない地域も珍しくありませんでした。 それでも「見るものがない」とは誰も言わなかった。選択肢が少ない分、家族が同じ番組を見て、同じところで笑い、同じところで驚いていました。 昭和のテレビを語るうえで、外せない番組があります。 まず「8時だョ!全員集合」です。 土曜日の夜8時、ドリフ...

【昭和の記憶】給食・駄菓子・ファミコン——昭和の子どもたちの放課後

学校のチャイムが鳴った瞬間、子どもたちは一斉に走り出しました。 ランドセルを家に放り投げて、また外へ飛び出す。 親に「どこ行くの」と聞かれても、「そこらへん」と答えて消えていく。 昭和の放課後は、子どもたちだけの王国でした。 給食・駄菓子・ファミコン まず、給食の話から始めましょう。 昭和の給食といえば、何といっても「脱脂粉乳」です。 戦後の食糧難の名残で、昭和30年代まで牛乳の代わりに出されていたもので、独特の臭みがあり、苦手な子どもが続出しました。 昭和40年代には瓶入りの牛乳に切り替わりましたが、脱脂粉乳を知っている世代には、給食イコールあの匂い、という記憶がある方も多いはずです。 献立は今よりずっとシンプルでした。 コッペパンにマーガリン、スープ、脱脂粉乳??これが基本セット。 ごはんが給食に登場するのは昭和51年以降のことで、それまでパンが毎日続きました。 クジラの竜田揚げも、昭和の給食の定番です。 当時、クジラは安価なタンパク源として重宝されており、給食に頻繁に登場しました。 好きな子もいれば、独特の臭みが苦手な子もいて、好き嫌いがはっきり分かれるメニューでした。 そして給食には、独特のルールがありました。 「残してはいけない」という先生の言葉は絶対で、給食が終わっても食べ終わらなかった子は、昼休みも教室に残って食べ続けなければならない。 今では考えられない光景ですが、当時はそれが普通でした。 それでも、揚げパンが出た日は別格でした。 砂糖やきな粉がまぶされた揚げパンが給食に出る日は、朝から子どもたちの間で話題になる。 昭和の給食メニューの中で、今でも「また食べたい」と語られる筆頭が、この揚げパンです。 学校が終わると、子どもたちが向かうのは駄菓子屋です。 駄菓子屋は、昭和の子どもたちの社交場でした。 おばあちゃんが一人で切り盛りしている小さな店に、学校帰りの子どもたちが押し寄せる。 握りしめた小銭は、だいたい10円か20円。 それでも、店の中には選びきれないほどのお菓子が並んでいました。 うまい棒が10円。 よっちゃんいかが10円。 ビッグカツが10円。 くじ引きが一回10円。 10円玉一枚で、どれを買うか真剣に悩む。 その時間が、子どもたちにとって至福のひとときでした。 スーパーボールすくいや、射的ゲームが置いてある店もありました。 スーパーボールを...