風がやんで、窓辺の鈴が静かになった時だったわ。
外はまだ蒸していて、空にはぽっかりと、薄い雲が浮かんでたの。
時間の針が、ゆっくりと、過去と今を行き来するような、そんな夜だった。
ほら、ああいうときって、何かが起こる予感、しない?
夕方、冷たいものを食べたくて、私ね、台所で素麺を茹でていたの。
くったりとしなやかになって、透き通るその姿を見ていると、なんだか……胸の奥まで、ほぐされていくみたいだった。
ひとりの食事があまりに静かで、つい、昔の声を思い出しちゃうのよね。
「また来るよ」って、笑ってくれたあの人の顔。
……ほんとに来たの。
玄関の戸を開けたら、そこに立っていたの。
あの頃と同じ優しい目をして、でもどこか、寂しげに笑うのね。
「覚えてる?」なんて言われて、私、何も答えられなかったわ。
だって、忘れるわけないでしょう?
ひとこと、ふたこと、そんな軽い言葉のやり取りの裏側に──
何年分の「言えなかった想い」が潜んでいたのかしらね。
「何もないけど、よかったら」って、食卓に案内したの。
冷たくしておいた、あれを出して。
そう、ただそれだけ。
……だけど、不思議ね。
目の前で箸を運ぶ彼を見ているうちに、どうしても視線が、手元じゃなくて、喉に行っちゃうの。
するすると吸い込まれていく、その動きに──どうしようもなく心がざわついて。
こっちを見て、にっこり笑われた時には、もう遅かったの。
身体の奥のどこかで、音のしない扉が、静かに開いていた。
汗をぬぐうふりをして、そっと帯のあたりを押さえたの。
布が薄いせいか、ほんの少しの動きでも、指先の感覚が鋭く伝わって……それだけで、もう、なにかが始まりそうで。
彼の視線がその手に向いたとき、思わず目を逸らしたの。
……まるで、わたしが誘ってるみたいじゃない?
でもね、本当のことを言えば……誘ってたのかもしれない。
そう言えるほどには、私、もう「強く」なってしまったから。
「……君って、こういうとき、変わらないね」って、ぽつりと彼がつぶやいた瞬間。
空気の中に、熱がひとしずく、落ちたのよ。
見えない何かが動いて、空気がふっと色を変えたの。
わかる? あの感覚。
指が、そっと私の手を取って。
それだけで、もう、心臓がどうにかなりそうで。
何年ぶりかしらね、誰かに触れられて、こんなに素直に震えたのは。
時が止まったような静けさの中で、ふたりの距離が少しずつ、ほんの少しずつ、縮んでいって。
やがて、唇の間を風が通り抜けたとき、彼の温もりが、頬に触れたの。
──やさしかった。
でも、確かに「男」だった。
それだけで、私は……女に戻れたの。
なにげない夜だったのに、今では忘れられない季節になってしまったわ。
あれ以来、私はあの涼しげな素麺を見るたびに、あの夜のことを思い出すの。
口に含むたび、彼の指先が、私のうなじをなぞったような気がするのよ。
そして今夜も、私はひとりで、あれを冷やしている。
誰が来るとも限らないのに、なぜか、準備してしまうの。
……身体って、覚えてしまうものなのね。
音もなく始まった、あの夜の、やさしい予感。
あの一瞬で、私はまた、素麺に恋をしてしまったのよ。
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