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【昭和の記憶】昭和の学校——怖い先生・鉄拳制裁・あの頃の教室のはなし

教室の後ろに、バケツを持って立たされている同級生がいました。 廊下に正座させられている上級生もいた。 職員室から、先生の怒鳴り声が聞こえてくることも珍しくなかった。 昭和の学校は、今とはまったく違う空気が流れていました。 昭和の学校生活 昭和の小中学校を振り返ると、まず建物が違います。 木造の校舎がまだ残っている学校もあり、廊下を走ると床がギシギシと鳴った。 窓は単板ガラスで、冬は教室の中でも息が白くなる。 石炭ストーブが教室の真ん中に置いてあって、当番の子どもが火をつけるところから一日が始まる学校もありました。 冷暖房などありません。 夏は窓を全開にして、扇風機が一台あればいいほう。 体育館には暖房がなく、真冬の朝礼で貧血を起こして倒れる子どもが続出する。 それでも「根性が足りない」と言われる時代でした。 教室の机と椅子は木製で、天板には歴代の先輩たちが彫った落書きが残っていた。 黒板は本物の黒板で、チョークの粉が常に漂っている。 チョークを叩きつけて注意する先生、黒板消しを投げてくる先生??そういう光景が普通にありました。 昭和の学校を語るうえで、避けて通れないのが先生の話です。 当時の先生の中には、今の基準では到底許されない指導をする方がいました。 授業中に居眠りをしたら、チョークが飛んでくる。 宿題を忘れたら廊下に立たされる。 忘れ物が多い子は、頭をげんこつで叩かれる。 ひどい場合には、竹刀や木刀を持って校内を歩く先生もいました。 体罰は、当時は「愛のむち」という言葉で正当化されていました。 「先生に叩かれるのは、それだけ期待されているから」という理屈が、親の間でも共有されていた。 先生に叩かれて帰宅した子どもに、親が「何をしたんだ、お前が悪い」と言う。 先生の側に立つのが、当時の親の常識でした。 ただ、怖い先生の中にも、子どもたちから本当に慕われていた先生がいました。 厳しいけれど、困ったときには真剣に相談に乗ってくれる。 叱るときは叱るが、認めるときはしっかり認めてくれる。 そういう先生の怒鳴り声は、不思議と子どもの心に残り続けるものでした。 怒鳴り声と怖い顔しか覚えていないはずなのに、何十年経っても名前を覚えている先生がいる。 それは、その先生が本気で子どもに向き合っていたからかもしれません。 昭和の授業の風景も、今とは違います。 授業の始まりは、日直...

【昭和の記憶】昭和の旅行-社員旅行・家族旅行・修学旅行のはなし

旅行の前の夜は、なぜかなかなか眠れませんでした。 枕元に明日の準備をした荷物を置いて、何度も確認する。 カメラにフィルムは入っているか。 小遣いは財布に入れたか。 昭和の旅行には、出発前からすでにわくわくがありました。 まず、昭和の旅行がどんなものだったか、全体像をお話しします。 現在、旅行に行くときはスマートフォンで目的地を調べて、ホテルを予約して、乗り換えを検索して??すべてが手のひらの中で完結します。 昭和はまったく違いました。 旅行といえば、まず旅行代理店の窓口へ行くことから始まります。 日本交通公社、近畿日本ツーリスト??そういった旅行会社の窓口に出向いて、担当者と相談しながらプランを決めていく。 地図は紙の地図。 時刻表は分厚い本。 国鉄の時刻表は電話帳のように厚く、それをめくりながら乗り継ぎを調べるのも旅の準備のひとつでした。 写真はフィルムカメラで撮る時代ですから、一本のフィルムで撮れる枚数は24枚か36枚。 シャッターを押すたびに「これは撮る価値があるか」と真剣に考える。 撮った写真がどう写っているかは、現像するまでわからない。 旅から帰って、写真屋でフィルムを現像してもらい、一週間後に仕上がった写真を受け取る瞬間のドキドキは、今では味わえないものでした。 昭和の旅行 昭和の旅行で、まず外せないのが社員旅行です。 年に一度か二度、会社全体あるいは部署単位で温泉地へ行く。 熱海、箱根、伊豆、草津??全国の温泉地が、社員旅行の団体客で賑わっていた時代です。 社員旅行は、建前上は任意参加でしたが、実際には断れない雰囲気がありました。 「今年の社員旅行、行けそうにありません」などと言えば、上司の顔色が変わる。 若手社員は特に、参加することが当然とされていました。 旅行先でも、会社の上下関係はそのままです。 温泉旅館の大広間に全員が集まって、上座に部長や課長が座り、下座に若手が並ぶ。 お酒が入っても、上司への気遣いは欠かせない。 「部長、もう一杯いかがですか」とお酌をして回るのが若手の仕事でした。 部屋割りも今とは違います。 一部屋に四人、五人が一緒に泊まるのが普通でした。 上司と同じ部屋になることもあり、夜中まで仕事の話や人生訓を聞かされる、という経験をした方も多いのではないでしょうか。 それでも、社員旅行には独特の楽しさがありました。 宴会の余興で普段は...

【昭和の記憶】バブル前夜、サラリーマンたちの残業と夢

夜の10時。 東京・丸の内のオフィスビルには、まだ煌々と明かりがついていました。 窓の向こうで、ネクタイを緩めたサラリーマンたちが、書類の山と格闘している。 でも、その顔には不思議と暗さがなかった。 「頑張れば、必ず報われる」??誰もがそう信じていた時代の話です。 サラリーマンたちの残業と夢 昭和60年、1985年前後の日本を振り返りましょう。 前回お話しした昭和50年代のテレビの時代から、さらに10年が経っています。 日本経済は力強く成長を続け、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という言葉がアメリカの本のタイトルになるほど、日本の存在感が世界で高まっていた時代です。 街を歩けば、新しいビルが次々と建っていく。 求人誌には仕事があふれ、就職活動をすれば複数の企業から内定がもらえる。 給料は毎年上がり、ボーナスも右肩上がり。 「来年は今年より豊かになる」ということを、誰もが疑わなかった。 そんな空気の中で、サラリーマンたちは働いていました。 1985年にはプラザ合意があり、円高が急速に進みます。 輸出企業は打撃を受けましたが、日本国内の景気は過熱していく一方でした。 そしてこの数年後、日本はバブル景気の絶頂を迎えることになります。 昭和60年代のサラリーマンの一日は、今とまるで違いました。 朝8時半に出社して、夜は10時、11時まで働くのが当たり前。 残業代が出る会社もあれば、出ない会社もある。 それでも誰も文句を言わなかった。 なぜか。 残業することが、仕事への誠意を示すことだったからです。 定時に帰る社員は「やる気がない」と見られる。 上司より先に席を立つことは、暗黙のルール違反。 仕事が終わっていても、上司が残っている限りは帰れない。 そういう職場が、日本中にありました。 残業の多さを、むしろ誇りに思う空気すらありました。 「俺は今月100時間残業した」という言葉が、武勇伝のように語られる。 今の感覚では信じられませんが、それが昭和の職場のリアルでした。 書類はすべて手書きかタイプライター。 コピーを一枚取るにも手間がかかる。 計算はそろばんか電卓で、一つひとつ手で確認する。 今ならパソコンで数分でできる作業に、何時間もかけていた。 それが残業の長さにも直結していました。 昭和のオフィスの風景は、今とまったく異なります。 まず、タバコです。 オフィスの中で、普通に...

【昭和の記憶】家族でカラーテレビを囲んだ夜のはなし

夕方6時になると、お母さんが台所で夕食の準備を始める。 お父さんが会社から帰ってくる音がする。 子どもたちはテレビの前に陣取って、チャンネルをめぐって言い合いをしている。 昭和の夜は、一台のテレビを中心に動いていました。 昭和の夜は、一台のテレビを中心に動いていました。 カラーテレビが日本の家庭に普及し始めたのは、1970年代のことです。 1964年の東京オリンピックがきっかけで白黒テレビが急速に普及しましたが、その後カラー放送が始まり、カラーテレビへの買い替えが進んでいきました。 1975年(昭和50年)頃には、一般家庭へのカラーテレビの普及率がほぼ90パーセントを超えます。 ただし、テレビは一家に一台の時代です。 子ども部屋にテレビがあるなど、考えられない話でした。 テレビはリビングに一台だけ テレビはリビングに一台だけ。家族全員が同じ部屋に集まって、同じ番組を見る。 それが昭和の夜の、当たり前の光景でした。 テレビそのものが、まだ高価な家電でした。 画面が壊れると修理に出して、修理されて戻ってくるまでの間、家の中がどこか寂しくなる。 テレビがそれほど、生活の中心にあったんです。 テレビが一台しかないということは、何を見るかをめぐって家族で争いが起きるということです。 チャンネル争いは、昭和の家庭における日常の風物詩でした。 子どもはアニメを見たい。 お父さんはプロ野球中継を見たい。 お母さんはドラマを見たい。 リモコンが普及する前は、テレビのそばまで行ってダイヤルを回してチャンネルを変えていました。 そのダイヤルを誰が握るか、それ自体が権力の問題でした。 たいていの場合、最終的な決定権はお父さんにありました。 「今日はナイター見るぞ」とお父さんが言えば、子どもたちは渋々あきらめる。 その代わり、週に一度だけ子どもが見たい番組を優先してもらえる、という暗黙のルールがある家庭も多かったようです。 チャンネル数も今とはまったく違います。 昭和50年代の地方では、映るチャンネルが三つか四つしかない地域も珍しくありませんでした。 それでも「見るものがない」とは誰も言わなかった。選択肢が少ない分、家族が同じ番組を見て、同じところで笑い、同じところで驚いていました。 昭和のテレビを語るうえで、外せない番組があります。 まず「8時だョ!全員集合」です。 土曜日の夜8時、ドリフ...

【昭和の記憶】給食・駄菓子・ファミコン——昭和の子どもたちの放課後

学校のチャイムが鳴った瞬間、子どもたちは一斉に走り出しました。 ランドセルを家に放り投げて、また外へ飛び出す。 親に「どこ行くの」と聞かれても、「そこらへん」と答えて消えていく。 昭和の放課後は、子どもたちだけの王国でした。 給食・駄菓子・ファミコン まず、給食の話から始めましょう。 昭和の給食といえば、何といっても「脱脂粉乳」です。 戦後の食糧難の名残で、昭和30年代まで牛乳の代わりに出されていたもので、独特の臭みがあり、苦手な子どもが続出しました。 昭和40年代には瓶入りの牛乳に切り替わりましたが、脱脂粉乳を知っている世代には、給食イコールあの匂い、という記憶がある方も多いはずです。 献立は今よりずっとシンプルでした。 コッペパンにマーガリン、スープ、脱脂粉乳??これが基本セット。 ごはんが給食に登場するのは昭和51年以降のことで、それまでパンが毎日続きました。 クジラの竜田揚げも、昭和の給食の定番です。 当時、クジラは安価なタンパク源として重宝されており、給食に頻繁に登場しました。 好きな子もいれば、独特の臭みが苦手な子もいて、好き嫌いがはっきり分かれるメニューでした。 そして給食には、独特のルールがありました。 「残してはいけない」という先生の言葉は絶対で、給食が終わっても食べ終わらなかった子は、昼休みも教室に残って食べ続けなければならない。 今では考えられない光景ですが、当時はそれが普通でした。 それでも、揚げパンが出た日は別格でした。 砂糖やきな粉がまぶされた揚げパンが給食に出る日は、朝から子どもたちの間で話題になる。 昭和の給食メニューの中で、今でも「また食べたい」と語られる筆頭が、この揚げパンです。 学校が終わると、子どもたちが向かうのは駄菓子屋です。 駄菓子屋は、昭和の子どもたちの社交場でした。 おばあちゃんが一人で切り盛りしている小さな店に、学校帰りの子どもたちが押し寄せる。 握りしめた小銭は、だいたい10円か20円。 それでも、店の中には選びきれないほどのお菓子が並んでいました。 うまい棒が10円。 よっちゃんいかが10円。 ビッグカツが10円。 くじ引きが一回10円。 10円玉一枚で、どれを買うか真剣に悩む。 その時間が、子どもたちにとって至福のひとときでした。 スーパーボールすくいや、射的ゲームが置いてある店もありました。 スーパーボールを...

【昭和の記憶】ウォークマンが変えた、日本人の通勤スタイル

1979年の夏。 東京の満員電車の中で、耳にヘッドフォンをつけた若者が現れ始めました。 周りの乗客は、最初、その姿をじっと見ていました。 「あれは何だ?」と。 その小さな機械の名前は??ウォークマン。 発売からわずか1か月で、初回生産分が完売しました。 耳にヘッドフォンをつけた若者 昭和54年、1979年の日本を少し振り返りましょう。 前回お話しした昭和49年から、5年が経っています。 オイルショックの混乱も落ち着き、日本経済は再び上向きはじめていました。 若者文化が花開き、ファッション、音楽、映画??街全体が明るい空気に包まれていた時代です。 音楽の楽しみ方といえば、当時はレコードが主流でした。 家で大きなステレオの前に座って、じっくり聴く。 音楽は「家の中で聴くもの」というのが、当たり前の常識でした。 そこにソニーが持ち込んだのが、「外で、歩きながら、音楽を聴く」という、それまで誰も考えなかったアイデアです。 ウォークマンが生まれたきっかけには、有名なエピソードがあります。 ソニーの創業者、井深大さんが「長距離フライトの機内で音楽を聴きたい」と言ったことがヒントになったと言われています。 当時の技術者たちは、既存のテープレコーダーから録音機能を取り除き、再生専用の小型機械を作ることにしました。 社内では最初、反対意見が多かったそうです。 「録音もできない機械が売れるはずがない」という声が上がりました。 しかし、もう一人の創業者・盛田昭夫さんが「絶対に売れる」と確信し、発売を押し切った。 1979年7月1日、ウォークマン第一号「TPS-L2」が発売されます。 価格は3万3000円。 当時の大卒初任給が10万円ほどでしたから、決して安くはありませんでした。 それでも飛ぶように売れた。 ウォークマンが登場する前、電車の中はどんな様子だったでしょうか。 みんな、ただ立っているか、座っているか、新聞を読んでいるか。 窓の外をぼんやり眺めているか。 隣の人と話すこともほとんどない。 通勤電車は、ただ「移動するだけの時間」でした。 ウォークマンが変えたのは、その「移動の時間」の意味です。 ヘッドフォンをつけた瞬間、満員電車の中に自分だけの空間が生まれる。 好きな音楽が流れ、周りの騒音が消える。 たとえ体は押しつぶされていても、耳の中は自分だけの世界。 これは、日本人にとってま...

【昭和の記憶】エマニエル夫人が大ヒットした時代、日本人の生活はこんなに違った

【冒頭フック】 1974年。映画館の前に、長い行列ができていました。 チケット代は700円。 サラリーマンの月給が8万円の時代に、それでも人々は列を作った。 その映画の名前は——「エマニエル夫人」。 今日は、その映画が大ヒットした昭和49年の日本人の暮らしを、令和と比べながら振り返っていきます。 エマニエル夫人が大ヒットした時代 【時代背景】 昭和49年といえば、前年にオイルショックが起きた直後です。 ガソリンが急騰し、トイレットペーパーが店頭から消え、主婦たちがスーパーに殺到した——あの騒動の翌年です。 物価は上がり、景気の先行きも不透明。 そんな閉塞感のある時代に、人々は映画館に非日常を求めました。 「エマニエル夫人」はフランス映画で、日本では成人映画として上映されました。 ただ、今日お話ししたいのは映画の内容ではありません。 あの行列を作るほど、人々が娯楽に飢えていた——その時代の空気と、当時の日本人の普通の暮らしです。 【物価・食事の比較】 まず、お金の話から始めましょう。 昭和49年のラーメン、一杯いくらだったか知っていますか? 正解は、だいたい150円です。 今の平均が900円前後ですから、約6倍になっている計算です。 かけそば・うどんは100円以下。 喫茶店のコーヒーが150〜200円。 ビール大瓶が250円ほど。 映画のチケットが700円。 大卒の初任給は、だいたい7〜8万円でした。 今の大卒初任給が20〜22万円程度ですから、数字だけ見ると3倍近く違います。 でも物価も安かったので、当時のサラリーマンは月8万円でそれなりの生活ができていました。 食卓はどうだったか。 冷凍食品はまだほとんど普及していませんでした。 お母さんが毎朝早起きして、お弁当のおかずを一から作るのが当たり前。 外食はハレの日のもので、ファミリーレストランもまだ珍しい時代です。 ちなみに、マクドナルドが日本に上陸したのは1971年ですが、昭和49年当時はまだ都市部のごく一部にしかありませんでした。 ハンバーガーを食べたことがない、という人がほとんどだったんです。 【働き方・職場の比較】 次に、働き方の話をしましょう。 昭和49年、週休2日制はほぼ存在しません。 土曜日は「半ドン」といって、午前中は仕事。午後から休み。 それどころか、土曜日もフルで働く職場もたくさんありました。 残...