ある日、突然、母から電話がかかってきたんです。いつもなら、もっと穏やかな声なのに、その日はまるで何かに怯えているようでした。「あなた、すぐ来てくれない?一人じゃ、もう無理なの」そう言われて、私はいてもたってもいられなくなり、仕事を早退して母の家へ向かいました。母は一人暮らしで、最近、足が悪くなってから、少しずつ私に頼るようになっていたのです。まさか、こんなに早く、こんな事態になるとは思ってもいませんでした。 母から電話がかかってきたんです。 母の家に着くと、玄関のドアが少しだけ開いていました。中からは、かすかに、でも明らかに、何かを引きずるような音が聞こえています。心臓がドキドキして、声も出せません。恐る恐るドアを開けると、リビングの明かりは消えていて、部屋の隅に母がうずくまっていました。「お母さん!」と声をかけると、母はゆっくりと顔を上げましたが、その目は虚ろで、焦点が合っていません。そして、母の口から出た言葉は、予想だにしないものでした。「あの子が…また来たの…」 「あの子」?誰のことだろう。母は最近、認知症の気配もなかったし、幻覚を見るような状態でもありませんでした。私は母のそばに駆け寄り、肩を抱き寄せました。「大丈夫だよ、私が来たから」そう言い聞かせながら、部屋を見回すと、床に奇妙な跡があることに気づきました。それは、まるで濡れた布きれを引きずったような、黒っぽい筋でした。それが、あの引きずる音の正体か…? 母は震えながら、さらに囁きました。「夜中になると、あの音が聞こえるの。そして、部屋の隅に、黒い影が…」その声は、恐怖でかすれていました。私も、だんだんと背筋が凍るような感覚に襲われてきました。母の訴えが、単なる思い過ごしではないような気がしてきたのです。この家で、一体何が起きているんだろう。暗闇の中に、見えない何かが潜んでいるような、そんな嫌な予感が、私の全身を駆け巡りました。夜が更けるにつれて、その気配はさらに色濃くなっていきました。