みなさんは、日本で最初のお金というと何を思い浮かべるでしょうか。学校で習った記憶をたどれば、富本銭や和同開珎という名前が出てくる方も多いはずです。ですが、この二つの銅銭が生まれた本当の背景をご存じの方は、意外と少ないのではないでしょうか。実はこの通貨の誕生には、当時の朝廷が抱えていた切実な野望と、それに対する民衆や地方豪族の激しい抵抗という、教科書には載らない生々しいドラマが隠されているのです。 まず知っていただきたいのは、当時の日本では米や布による物々交換がごく当たり前に行われていたということです。そこに突然、金属でできた小さな板を「これがお金です、価値があります」と言われても、庶民からすれば戸惑うばかりだったでしょう。それでも天武天皇や持統天皇の時代から奈良時代にかけて、朝廷はなんとしても貨幣というものを世の中に根付かせようとしました。その理由の一つは、当時の東アジアの大国であった唐に対抗し、日本もまた中央集権のしっかりした国家であるという体裁を整えるためでした。貨幣を持つということは、いわば国家としての格式の証明でもあったのです。 朝廷の本気度がよくわかるのが、蓄銭叙位令という制度です。これは簡単に言えば、お金をたくさん貯めた者には位を与えるという、なんとも大胆なインセンティブ政策でした。今の感覚で言えば、貯金額に応じて社会的地位が上がるようなものです。しかしこの政策、狙いとは裏腹に思うようには広まりませんでした。人々はお金そのものの価値をまだ信じきれておらず、位をもらうためだけに銅銭を貯め込む酔狂な者は限られていたのです。 さらに朝廷にとって貨幣は、単なる権威の象徴以上の意味を持っていました。それは、平城京という巨大な都の建設や、東大寺の大仏建立といった、途方もない規模の国家事業を進めるための資金調達の手段でもあったのです。銅という原材料そのものはさほど高価ではありません。それを貨幣という形に変えて流通させることで、朝廷は実質的にわずかな元手から莫大な支払い能力を生み出そうとしました。いわば国家規模の錬金術です。しかしこのやり方は当然のように急激な物価上昇を招き、庶民や地方の豪族たちからは「こんな金属の輪っかより、米や布のほうがよほど信用できる」という強い反発を呼ぶことになりました。 そしてこの後、皇朝十二銭と呼ばれる一連の貨幣が次々と発行されていくのですが...