「いらっしゃい」 声は、ガラガラと鳴る重い引き戸の音に吸い込まれて消えた。 長年の水拭きで角が丸くなった白木のカウンター。壁には、すっかり色褪せた「昭和五十四年」の千社札が貼られたままだ。 俺の名前はケンイチ。御年57歳。 かつてこの商店街が、肩をぶつけないと歩けないほど人で溢れかえっていた時代、ご近所の大人たちから「すし屋のケンちゃん」と呼ばれ、もてはやされていた男だ。 「すし屋のケンちゃん」 親父が倒れ、俺が二代目として板場に立つようになってから三十年。 気がつけば、時代は平成を通り越し、令和の世になっていた。 店の外では、かつての八百屋や肉屋が次々とシャッターを下ろし、今では無機質なマンションと駐車場が立ち並ぶ。家族経営の温かいホームドラマなんてものは、とっくにテレビの中だけのファンタジーになっていた。 帳簿を開くまでもない。今月の赤字も悲惨なものだ。 「ケンちゃん、立派に跡を継いだね」と笑ってくれていた常連客たちは、もうごっそりとこの世にいない。若者は駅前の明るくて安いチェーン店へ吸い込まれていく。 先週、とうとう付き合いの長い信金から融資の打ち切りをやんわりと告げられた。「立地はいいんですから、店を畳んで土地を売りませんか」と。 ついに来るべき時が来た。倒産である。 親父が遺したこの店を、俺の代で終わらせる。 その事実が、鉛のように腹の底にのしかかる。子供の頃、店を手伝うと親父が握ってくれた玉子焼きの甘い匂いを思い出し、俺は自嘲気味に笑った。 「ごめんな、親父。ドラマみたいに、近所の人が助けてくれる奇跡は起きないみたいだ」 綺麗に研がれた柳刃包丁を見つめる。 昭和という活気ある時代が生み出した熱狂は、静かに冷え切ってしまった。あの底抜けに明るかったご近所付き合いも、今はもう無い。けれど、この包丁に染み付いた職人としての意地だけは、どうやっても捨てきれなかった。 「……あと一ヶ月」 ぽつりと呟いた。 月末の不渡りが確定するその日まで、暖簾は出し続ける。 最後の日まで、俺は「すし屋のケンちゃん」として、誰が来るかもわからないこの店で、最高のシャリを炊き続ける。 ガラッ。 突然、引き戸が開いた。西陽を背にして立っていたのは、見慣れぬスーツ姿の若い男だった。 「あの……やってますか?」 俺は顔を上げ、かつて親父がそうしていたように、少しだけ口角を上げてみせた。 「...