港町に秋の雨が降っていた。 「今日はもう店じまいだよ」 女将の声にうなずきながら、俺はいつもの席に腰を下ろした。漁を終えた船の灯りが、窓の向こうで揺れている。 十年前、この港でひとりの女性と出会った。 明るくて、よく笑う人だった。 「いつか大きな町へ行ってみたいな」 そう言っていた彼女は、本当に町を出て行った。そして俺は引き留めることができなかった。 湯気の立つ酒を口に運ぶ。 「あの時、違う言葉を選んでいたらな」 誰に聞かせるでもない独り言が漏れた。 店の隅では古いラジオが流れている。時計を見ると、もうすぐ日付が変わる時間だった。 その時、入り口の戸が開いた。 「こんばんは」 聞き覚えのある声に顔を上げる。 そこに立っていたのは、十年ぶりの彼女だった。 「久しぶりね」 俺は驚きすぎて言葉が出ない。 彼女は笑った。 昔と同じ、少し照れたような笑顔だった。 「帰ってきたの。少しだけ、この町を見たくなって」 窓の外では、船の汽笛が夜の海に響く。 俺たちは昔話をした。離れていた時間を埋めるように、ゆっくりと。 やがて店を出る頃には、雨は止んでいた。 雨は止んでいた。 港の風は冷たかったが、不思議と心は温かい。 失ったと思っていた時間は戻らない。 それでも、人はもう一度出会うことがある。 並んで歩く彼女の横顔を見ながら、俺はそう思った。 静かな港町の夜は、まだ終わりそうになかった。