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【昭和の記憶】昭和の近所づきあい——お裾分け・回覧板・鍵のかからなかった時代のはなし

「ごめんくださーい」という声がして、玄関が開く音がしました。 鍵はかかっていません。 隣のおばさんが、皿に何かを載せて立っています。 「畑でたくさん採れたから、よかったら」 昭和の近所づきあいは、この一言から始まっていました。 昭和の近所づきあい 今、隣に誰が住んでいるか知らない、という人が都市部では珍しくありません。 引っ越してきても挨拶をしない、回覧板は存在すら知らない、隣の家から物音がしても気にしない。 それが悪いわけではありません。 プライバシーを守ることは、現代社会の大切な価値観のひとつです。 ただ、昭和の暮らしはまったく逆でした。 近所の人の名前はもちろん、家族構成も仕事も、だいたいの収入事情まで、なんとなく知っている。 隣の家で何かあれば、すぐにわかる。 子どもが熱を出せば近所のおばさんが手伝いに来て、ご主人が入院すればお隣が食事の心配をする。 プライバシーなど、ほぼなかったといっていい時代です。 それが息苦しいこともあったけれど、一人では生きていけないときに、必ず誰かが手を差し伸べてくれる安心感があった。 今日はその昭和の近所づきあいを、お裾分け、回覧板、鍵のかからなかった玄関という三つの切り口から振り返っていきます。 昭和の近所づきあいの象徴といえば、お裾分けです。 畑で野菜がたくさん採れた。 もらいものの果物が多すぎて食べきれない。 お菓子を作ったので少し持っていく。 そういうときに、近所の家を訪ねてお裾分けをする。 それが昭和の近所づきあいの、ごく自然な習慣でした。 お裾分けをもらった側は、翌日か翌々日に、空になった皿や容器を返しに行く。 そのときには必ず、何か別のものを載せて返すのが礼儀でした。 空のまま返すのは失礼、という暗黙のルールが、どこの地域にもありました。 お皿のやりとりが、近所の人との会話のきっかけになる。 「これ、うちの畑で採れたんですよ」「まあ、立派ですね」「よかったら上がっていきませんか」——そこから始まる立ち話が、三十分、一時間と続く。 子どもの頃、お母さんにお裾分けを届けるお使いを頼まれた記憶がある方も多いのではないでしょうか。 「お隣に持っていって」と言われて、皿を両手で持ちながら、こぼさないように慎重に歩いていく。 玄関のチャイムを押して、「お母さんから預かってきました」と言う。 隣のおばさんに頭を撫でられて、お駄賃...

【昭和の記憶】昭和の娯楽——紙芝居・貸本屋・街頭テレビが人々を集めた時代のはなし

どこからともなく、拍子木の音が聞こえてきました。 カンカンカン——その音が路地に響いた瞬間、子どもたちは一斉に表へ飛び出していきます。 「紙芝居屋のおじさんが来た」と、誰かが叫ぶ。 昭和の娯楽は、音とともにやってきました。 【昭和の記憶】 今、娯楽はすべて手のひらの中にあります。 スマートフォンを開けば、映画も音楽もゲームも漫画も、無限に手に入る。 一人で、自分の部屋で、好きな時間に好きなものを楽しむ。 昭和の娯楽は、まったく逆の方向を向いていました。 娯楽は外にあるものでした。 誰かのところへ行かなければ楽しめない、誰かと一緒でなければ始まらない。 紙芝居は紙芝居屋のおじさんが来なければ見られない。 街頭テレビは電器屋の前まで行かなければ見られない。 貸本屋に行かなければ漫画は読めない。 娯楽を手に入れるために、人は外へ出て、誰かのところへ集まった。 その「集まること」が、昭和の娯楽の本質だったのかもしれません。 今日はその昭和の娯楽の中から、紙芝居、貸本屋、街頭テレビの三つを中心に振り返ります。 いずれも昭和とともに姿を消したものばかりですが、あの頃の路地や街角の空気とともに、記憶している方も多いのではないでしょうか。 まず、紙芝居の話から始めましょう。 紙芝居屋のおじさんは、自転車の荷台に木製の舞台を載せてやってきました。 到着すると拍子木をカンカンと叩いて子どもたちを呼び集め、自転車の荷台に舞台をセットして、絵を差し替えながら物語を語っていく。 演目は勧善懲悪の時代劇や冒険もの、怪奇話などが多く、おじさんの語り口ひとつで子どもたちの表情がくるくると変わりました。 怖い場面では思わず後ずさりし、主人公が窮地に立たされると「頑張れ」と声が上がる。 紙芝居は一方的に見るものではなく、見ている子どもたちが声を上げ、笑い、怯えることで完成するものでした。 紙芝居屋のおじさんは商売人でもありました。 水飴、ソースせんべい、砂糖菓子——紙芝居の前に駄菓子を売るのが、おじさんの収入源です。 何か買った子どもは前の方に立てて、何も買わない子どもは後ろに下がらなければならない、という暗黙のルールがありました。 持ち合わせのない日は、後ろの方からつま先立ちで覗き込む。 それでもおじさんは追い払いはしない。 「来週までに続きを考えておけよ」と言い残して、自転車で去っていく。 紙芝居...

【顕微鏡】1966年のレコードの溝を拡大したら、昭和ポップスを食べる「謎の生命体」が蠢いていた。

針が落とされた瞬間、タケシは奇妙な違和感を覚えた。 スピーカーから流れてきたのは、1966年発売の昭和ポップスの名盤『東京ノスタルジア』。本来なら、当時の空気感をそのまま閉じ込めたような、温かみのあるアナログサウンドが部屋を満たすはずだった。しかし、初来日したビートルズに日本中が沸き立っていたあの時代の熱気を帯びたヴォーカルは、どこか痩せ細り、かすれたように歪んでいた。 レコードの振動を餌とする寄生生物 「おかしいな。昨日クリーニングしたばかりなのに」 タケシはオーディオマニアだった。特に1960年代のポップスレコードの収集には狂気的な情熱を注いでいる。彼はすぐに演奏を止め、ターンテーブルからレコード盤をそっと持ち上げた。 西日が差し込む書斎で、漆黒の塩化ビニール盤を光にかざす。その時、彼の目が盤面の一角に吸い寄せられた。 溝(グルーヴ)の一部が、まるで生き物のようにかすかに「脈打って」いたのだ。 タケシは冷や汗を覚えながら、デスクから電子顕微鏡を取り出し、PCの画面に接続した。レンズを問題の箇所に合わせ、倍率を上げていく。モニターに映し出された映像に、彼は息を呑んだ。 そこには、音溝に深く根を張る、半透明の奇妙な有機体が蠢いていた。 それはアメーバのようでもあり、細い菌糸の集まりのようでもあった。驚くべきことに、その有機体はレコードの溝に刻まれた細かな凹凸――つまり、1966年の録音テープから転写された「音の振動」そのものを物理的に貪り食っていた。音の強弱や微細なニュアンスが刻まれた溝の壁面が、その生物が通った後から、みるみるうちに削られ、ただの平坦で無機質なプラスチックの溝へと変貌していく。 「嘘だろ……。こいつ、昭和の音を食べているのか?」 信じられない光景だったが、目の前の現実は容赦なく進行していた。生物が脈打つたびに、画面の向こうで1960年代のきらびやかなスネアの残響や、甘いサックスのヴィブラートが、文字通り消滅していく。この生物は、単にプラスチックを分解しているのではない。そこに宿る「アナログの温かみ」という、特定の周波数の振動エネルギーを餌にしているのだ。 タケシがさらに観察を続けると、事態はより深刻であることが判明した。有機体が通った後の溝は、単に平らになるだけではなかった。過剰にエネルギーを吸収されたプラスチックは急速に劣化し、微細なガラスのよう...

【昭和の記憶】昭和の乗り物——蒸気機関車・ボンネットバス・オート三輪が走っていた時代のはなし

遠くから、低い汽笛の音が聞こえてきました。 次の瞬間、黒い煙をもうもうと吐きながら、巨大な鉄の塊が目の前を通り過ぎていく。 地面が揺れて、熱い風が顔に当たって、石炭の匂いが鼻をつく。 蒸気機関車を初めて見た日のことを、今でも覚えている方はいますか。 昭和という時代は、乗り物の変化という観点から見ると、驚くほどドラマチックな時代でした。 昭和の初めには、まだ馬車が都市部を走っていました。 路面電車が街の主役で、自動車はまだ珍しい存在だった。 それが昭和の終わりには、新幹線が全国に広がり、高速道路が整備され、飛行機が一般市民の乗り物になっていた。 わずか六十数年の間に、日本の乗り物は江戸時代の延長線上から、現代とほぼ変わらない姿へと劇的に変化したのです。 今日はその昭和の乗り物の中から、蒸気機関車、ボンネットバス、オート三輪の三つを中心に振り返っていきます。 いずれも今では博物館や観光地でしか見られないものばかりですが、昭和の子どもたちにとっては、ごく日常の風景の中にあった乗り物たちです。 懐かしい昭和の乗り物 まず、蒸気機関車の話から始めましょう。 蒸気機関車、通称SLが日本の鉄道の主役だったのは、昭和40年代半ばまでのことです。 1975年(昭和50年)に国鉄の定期運行が終了するまで、SLは日本中の線路を走り続けていました。 SLの何が人々を魅了したのか。 それは、機械でありながら、まるで生き物のように見えたからではないでしょうか。 石炭を燃やして水を沸かし、蒸気の力でピストンを動かして車輪を回す。 シュッシュッという息遣いのような音、ドラフト音と呼ばれる排気の響き、白い蒸気と黒い煙が混ざり合って空へ舞い上がる様子。 それは単なる交通手段ではなく、見る者を圧倒する存在感がありました。 当時の子どもたちにとって、SLは憧れの的でした。 駅のホームでSLが入ってくるのを待ち、通り過ぎる瞬間に窓から顔を出す。 すると石炭の煤が顔についてしまって、お母さんに叱られる。 でもそれでも懲りずに、また顔を出してしまう。 SLに乗ると、トンネルに入る前に窓を閉めなければなりませんでした。 閉め忘れると、トンネルの中で煤だらけになるからです。 車内のシートにも、うっすら黒い汚れが積もっていた。 それがSLに乗るということの、リアルな感触でした。 機関士という職業も、当時の子どもたちの...

SF・近未来ラノベ となりのロボット 第1話「彼女は味噌汁が飲めない」

引っ越しの挨拶に来た隣人は、段ボール箱を両手に抱えたまま、まっすぐ俺の目を見て言った。 「はじめまして。七号室に越してきました、ナナです。よろしくお願いします」 丁寧なお辞儀。笑顔。手土産のクッキー。 完璧だった。完璧すぎた。 「……ロボットですか」 「はい」 ナナはあっさり認めた。 「驚かせてしまいましたか?」 「いや、まあ」と俺は言った。「驚いた、けど」 驚いた理由は、ロボットだったからじゃない。ロボットが一人で部屋を借りて引っ越してきたことでもない。 ただ——その笑顔が、なんか、妙に自然だったから。 隣人はロボット ◇ ナナがこのアパートに越してきたのは、十月の頭のことだった。俺——田中蓮、二十九歳、フリーのイラストレーター——は六号室に三年住んでいる。隣が長いこと空いていたから、新しい住人が来るとは思っていなかった。 まして、ロボットが来るとは。 でも、大家さんは「入居審査は通ってますよ」とだけ言って、特に何も説明しなかった。最近はロボットに賃貸を貸す家主も増えてきたらしい。なんでも、家賃を滞納しないし、物を壊さないし、近隣トラブルを起こさないから、むしろ優良入居者なんだとか。 たしかに。 ナナは静かだった。廊下で会えばちゃんと挨拶してくれる。ゴミ出しのルールも完璧に守る。夜中に騒ぐこともない。 ただ一つ気になることがあるとすれば—— ◇ 「ナナさん、また廊下で立ってたんですか」 朝の七時。俺がゴミを捨てに出ると、ナナは共用廊下のベンチに腰かけて、外を見ていた。 「はい」と彼女は言った。「朝の空気が好きで」 「……ロボットって、空気の好みがあるんですか」 「あるかどうか、わかりません」とナナは答えた。「でも、ここにいると落ち着きます」 俺はゴミ袋を持ったまま、しばらくその隣に立っていた。たしかに、悪くない朝だった。遠くで鳥が鳴いていた。 「コーヒー、飲みますか」と俺は言った。なんとなく。 ナナは少し間を置いてから言った。 「飲めません。でも、そばにいてもいいですか」 「……どうぞ」 それが、ナナと話すようになったきっかけだった。 ◇ ナナはよく、俺の部屋に来た。 来ると言っても、飯を食うわけでも酒を飲むわけでもない。ただ、テーブルの向かいに座って、俺が作業するのを見ていた。たまに話しかけてきた。 「その絵、誰ですか」 「依頼の挿絵。小説の主人公」 「かわいい...

【昭和の記憶】昭和の食卓——お袋の味・インスタント食品の登場・外食が特別だった時代のはなし

朝5時半。 台所からお母さんの包丁の音が聞こえてきます。 まな板の上でトントントンと刻む音、油の温まる匂い、味噌汁の湯気。 昭和の朝は、台所の音で始まりました。 あの匂いと音が、今でも記憶の奥底に残っている方は多いのではないでしょうか。 昭和の食卓 昭和の食卓を語るうえで、まず押さえておきたいことがあります。 冷凍食品がほとんどなかった時代、電子レンジも普及していなかった時代、外食も今ほど手軽ではなかった時代——昭和の家庭の食事は、ほぼすべてお母さんの手作りで成り立っていました。 朝ごはんはご飯に味噌汁、焼き魚か卵焼き、漬物。 お弁当は前日の残りのおかずを詰め直して、足りない分は朝に作り足す。 夕食はその日の特売品や残り物を組み合わせた、即興の献立。 献立を考えるのも、食材を調達するのも、調理するのも、片付けるのも——すべてお母さん一人の仕事でした。 家族のために毎日三食を用意することが、当たり前とされていた時代です。 スーパーマーケットが普及し始めたのも昭和の出来事ですが、昭和30年代から40年代にかけてはまだ、八百屋、魚屋、肉屋と個人商店をはしごして食材を買うのが普通でした。 商店街のおじさんやおばさんとの会話が、毎日の買い物に組み込まれていた。 今のネットスーパーとは、まるで別の世界の話です。 昭和の家庭料理といえば、まず肉じゃがです。 醤油と砂糖で甘辛く煮た肉じゃがは、昭和の食卓の定番中の定番でした。 じゃがいも、にんじん、玉ねぎ、豚肉か牛肉——家によって具材と味付けが微妙に違う。 よその家に遊びに行って夕食をご馳走になると、「うちのと味が違う」と気づく。 その違いが、お袋の味というものの正体です。 コロッケも昭和の家庭料理の花形でした。 じゃがいもを茹でてつぶして、炒めた玉ねぎとひき肉を混ぜて、形を作って、パン粉をつけて揚げる。 今なら惣菜コーナーで百円ちょっとで買えるものを、お母さんは一から手間をかけて作っていた。 揚げたてのコロッケが食卓に並ぶ日は、子どもたちにとってちょっとした祝祭でした。 ほかに昭和の食卓に欠かせなかったものといえば、切り干し大根の煮物、ひじきの煮物、卯の花。 今では「地味なおかず」と言われるようなものが、毎日の食卓に並んでいました。 カルシウムや食物繊維が豊富な、栄養的にも優れた料理ばかりです。 当時の子どもたちはそのありがたさを...

【昭和の記憶】昭和の病院——注射・赤チン・往診に来たお医者さんのはなし

病院の廊下に、長い列ができていました。 順番を待つ間、消毒液の匂いが鼻をつく。 診察室のドアが開くたびに、子どもたちがびくりと体を縮める。 あの頃の病院には、独特の緊張感がありました。 そして、それ以上の温かさも。 昭和の病院 昭和の病院と今の病院で、まず違うのは予約システムです。 今は多くの病院でインターネット予約ができ、待ち時間も事前にある程度わかります。 昭和にそんなものはありません。 朝早くから病院へ行き、受付に診察券を出して番号札をもらう。 その番号が呼ばれるまで、廊下の長椅子に座って待つ。 待ち時間は平気で二時間、三時間ということがありました。 具合が悪い体を引きずって病院まで来て、さらに何時間も待たされる。 それでも文句を言う人は少なかった。 「病院とはそういうものだ」という認識が、当時は共有されていたからです。 診察室の中には、白衣を着た医師が一人。 聴診器を当てて、喉を診て、お腹を触って、「はい、わかりました」。 今のようにコンピューターの画面を見ながら説明するのではなく、医師が直接患者の体を診る。 その分、医師と患者の距離が近く、顔と顔を向き合わせた診察が行われていました。 昭和の病院で、子どもたちが最も恐れていたもの??それが注射です。 注射が怖くない子どもなど、ほとんどいませんでした。 診察室に入る前から「注射はしますか」と親に聞き、「しないよ」と言われてほっとして、でも結局注射になって大泣きする。 そういう子どもが、病院の廊下には必ずいました。 昭和の注射には、今と大きく違う点がありました。 注射器の使い回しです。 現在は注射器を一人ひとりに使い捨てにするのが当たり前ですが、昭和の時代、特に昭和30年代から40年代にかけては、注射器を消毒して複数の患者に使い回すことが行われていました。 針を熱湯消毒したり、アルコールで拭いたりして再利用する。 感染症リスクという観点では問題がありましたが、当時はそれが標準的な医療行為でした。 注射の後は、アルコールを含ませた脱脂綿で針を刺した場所を押さえて、「はい、終わり」。 泣いていた子どもに看護婦さんが「よく頑張ったね」と声をかける。 注射に耐えた後の、あの解放感は格別でした。 集団予防接種も、昭和の子どもたちの記憶に残るものです。 学校の体育館や講堂に全校生徒が集められ、順番に腕をまくって注射を受ける...