スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

前略 還暦からの歴史再入門 古代国家 飛鳥時代 大宝律令 全国支配のための基本法 律令国家 天皇中心の理想はどうやって現実の法律になったのか、租庸調から二官八省まで律令国家のしくみを読み解く

古きを訪ねて新しきを知る「温故知新」 前略、還暦からの歴史再入門、今日は飛鳥時代の締めくくりとも言えるテーマ、大宝律令についてお話ししていきたいと思います。前回は大化の改新のお話をしましたが、あの改革をきっかけに動き出した国づくりが、一つの完成形として結実したのが、この大宝律令なんです。それでは早速、当時の状況から見ていきましょう。 大化の改新から半世紀ほどが経った701年、朝廷は大宝律令という法律を完成させます。これは日本で初めて本格的に整えられた、律と令という二本柱からなる法典です。 律というのは今で言う刑法にあたるもので、どんな行為が罪になり、どんな罰が科されるかを定めたものです。令のほうは、今で言う行政法や民法にあたるもので、政治のしくみや、役所の仕事、税の取り方、土地の扱い方など、社会全体のルールを細かく定めたものになります。 この二つがセットになって初めて、国全体を一つの法律で治める律令国家というものが成り立つわけです。 なぜこの大宝律令がそれほど重要なのか、そこをお話ししたいと思います。大化の改新のところでもお話ししましたが、あの時代はまだ、天皇中心の国づくりという方向性が示されただけの段階でした。理想は掲げたけれど、それを実現する細かいルールがまだ整っていなかったんですね。 豪族たちの力もまだ完全には抑え込めていませんでしたし、地方の役人をどう配置して、どんな仕事をさせるのか、税をどんな比率でどうやって集めるのか、そういった具体的な仕組みが手探りの状態でした。大宝律令は、そうした手探りの試行錯誤に、一つの明確な答えを出したものだと言えます。 具体的な中身を少し見ていきましょう。まず中央の政治のしくみとして、二官八省という組織が整えられました。神様を祀ることを担当する神祇官と、実際の政治を行う太政官という二つの官庁を頂点に置いて、その下に八つの省を配置し、それぞれが財政や、儀式や、軍事や、司法といった仕事を分担する形になっています。今で言う各省庁のようなものが、このころにはすでに原型としてできあがっていたんですね。 地方についても、国、郡、里という単位で統治するしくみが、より細かく整備されました。国司という役人を中央から派遣して、各地の政治を任せる。この国司という言葉、時代劇などでも耳にしたことがある方も多いんじゃないでしょうか。中央から人を送り込んで...

前略 還暦からの歴史再入門 古代国家 飛鳥時代 大化の改新 天皇中心の国家づくり 権力を握った蘇我氏はなぜ滅びたのか、中大兄皇子と中臣鎌足が目指した新しい国のかたちとは

古きを訪ねて新しきを知る「温故知新」 前略、還暦からの歴史再入門、今日は飛鳥時代の後半、大化の改新についてお話ししていきたいと思います。皆さん、大化の改新という言葉、学生時代に一度は聞いたことがあると思います。645年、乙巳の変という事件から始まる一連の政治改革のことですね。ただ、当時は年号を覚えるだけで精一杯で、実際にどんな中身だったのか、きちんと理解できていた人は案外少ないんじゃないでしょうか。今日はそのあたりを、じっくりゆっくりお話ししていきますので、どうぞ最後までお付き合いください。 まず時代背景からお話ししましょう。飛鳥時代、聖徳太子が亡くなったあと、朝廷の中では蘇我氏という一族が非常に大きな力を持っていました。蘇我馬子、そしてその息子の蝦夷、さらにその子の入鹿と、三代にわたって天皇家をしのぐほどの権力を握っていたんです。特に蘇我入鹿は、聖徳太子の息子である山背大兄王を自害に追い込むなど、かなり強引なやり方で権力を固めていきました。天皇を上回るような振る舞いをする豪族の存在に、危機感を抱いた人たちがいたわけですね。 その危機感を持った代表格が、中大兄皇子と中臣鎌足です。中大兄皇子はのちの天智天皇、中臣鎌足はのちの藤原鎌足として、日本史に大きな名前を残すことになる二人です。この二人が中心となって、蘇我氏を打倒する計画を練っていきました。そして645年、飛鳥板蓋宮という場所で、朝鮮半島の使者を迎える儀式の最中に、蘇我入鹿を暗殺するという大事件が起こります。これが乙巳の変です。突然の出来事に父親の蝦夷も観念し、自ら邸宅に火を放って命を絶ちました。こうして権勢を誇った蘇我氏の本流は、あっという間に滅びてしまったんですね。 さて、ここからが本題の大化の改新です。蘇我氏を倒しただけでは政治は変わりません。中大兄皇子たちが本当にやりたかったのは、その先にある国のかたちを大きく作り変えることでした。当時の日本は、豪族たちがそれぞれ土地や人民を私有し、まるでミニ国家のようにバラバラに支配している状態だったんです。これでは中央でどれだけ立派な政治をしようとしても、地方はてんでばらばら、税もきちんと集まらないし、いざというときに国全体で動くこともできません。そこで中大兄皇子たちは、天皇を中心とした一つの強い国家をつくろうと考えたんです。 この改革の中で特に重要なのが、公地公民と...

前略 還暦からの歴史再入門 古代国家 飛鳥時代 法隆寺 聖徳太子が建てた寺院 千四百年前の建物が今も立つ理由 聖徳太子と法隆寺の物語

古きを訪ねて新しきを知る「温故知新」 皆さん、こんにちは。 前略、還暦からの歴史再入門、今日は飛鳥時代のお話です。前回は仏教が日本に伝わったところまでお話ししましたね。百済から仏像やお経が贈られてきて、それを受け入れるかどうかで蘇我氏と物部氏が対立した、というところまで進みました。今日はその続き、いよいよ聖徳太子が登場する時代のお話です。 飛鳥時代というのは、だいたい六世紀の終わりごろから七世紀の終わりごろまでを指す時代でして、奈良盆地の南、今の奈良県明日香村のあたりに都が置かれていた時代のことを言います。この時代の主役の一人が、皆さんもよくご存知の聖徳太子です。 聖徳太子は、用明天皇の息子として生まれました。子供の頃から大変聡明だったと伝えられていて、十人の話を同時に聞き分けて理解したという逸話まで残っているほどです。本当かどうかはさておき、それくらい優秀な人物だったということが後世まで語り継がれているわけですね。 さて、蘇我氏と物部氏の対立ですが、これは仏教を受け入れるかどうかという宗教的な対立であると同時に、実は朝廷内での権力争いでもありました。この戦いに勝利したのが蘇我氏でして、その後、蘇我馬子という人物が中心となって政治を進めていくことになります。そして推古天皇が即位すると、聖徳太子はその摂政として、蘇我馬子とともに国づくりを担っていくことになるのです。 聖徳太子が行ったことの中でも、特に有名なのが冠位十二階と十七条の憲法です。冠位十二階というのは、家柄ではなく個人の能力や功績によって役人の位を決める制度でして、それまでの日本にはなかった新しい考え方でした。十七条の憲法のほうは、法律というよりも、役人たちの心構えを説いたもので、「和をもって貴しとなす」という言葉は、皆さんも一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。この言葉、実は聖徳太子が作ったこの憲法の第一条に出てくる言葉なんです。 そしてもう一つ、聖徳太子が力を入れたのが仏教の振興でした。仏教を単なる外国の宗教としてではなく、国を治めるための精神的な支えとして活用しようと考えたんですね。そこで建てられたのが、今日のテーマでもある法隆寺です。 法隆寺は、聖徳太子が推古天皇や父である用明天皇の病気平癒を願って建てたと伝えられているお寺で、奈良県の斑鳩というところにあります。創建は607年頃とされていまし...

前略 還暦からの歴史再入門 古代日本 古墳時代 朝鮮三国 百済から仏像と経典が伝わる 仏教伝来

古きを訪ねて新しきを知る「温故知新」 前略、還暦からの歴史再入門、今回のテーマは古代日本、古墳時代です。 仏教伝来と聞くと、なんだか教科書的で堅苦しい印象を持たれる方も多いかもしれませんね。でも実はこの出来事、日本人の暮らしや考え方の土台を大きく変えた、とても人間くさいドラマに満ちた話なんです。今日はそんな仏教伝来のお話を、できるだけわかりやすく、皆さんと一緒に振り返っていきたいと思います。 まず時代背景からお話ししましょう。六世紀の日本列島は、大和政権を中心に豪族たちがまとまりつつある時期でした。海の向こうの朝鮮半島には、高句麗、新羅、百済という三つの国がそれぞれ勢力を争っていました。この三国、いわゆる朝鮮三国は、単に隣国というだけでなく、日本にとって最新の文化や技術を運んでくる大切な窓口でもあったんですね。鉄の道具作りや稲作の技術、漢字による文字の文化なども、こうした半島とのつながりを通じて少しずつ日本に伝わってきました。 そんな中、百済の聖明王という王様が、大和政権の欽明天皇に向けて、金銅の仏像と経典、そして仏教の教えを説明する上表文を贈った出来事があります。これがいわゆる仏教伝来の瞬間だと言われています。年代については五三八年説と五五二年説があって、今でも研究者の間で議論が続いているんですが、どちらにしても六世紀半ばの出来事であることは間違いありません。 面白いのは、百済がなぜわざわざ日本に仏教を伝えたのかという点です。実はこれ、純粋な信仰心だけの話ではなかったようなんですね。当時の百済は高句麗や新羅との争いの中で、なんとか大和政権との友好関係を強め、軍事的な支援を得たいという事情がありました。つまり仏教という当時最先端の思想や文化を贈り物にすることで、外交関係を深めようとしたわけです。今で言えば、大切な取引先に最新の技術や貴重な品を贈って関係を強化する、そんな感覚に近いかもしれません。歴史というのは、こういう人間くさい駆け引きの積み重ねで動いているんだなと感じますよね。 さて、仏像と経典を受け取った欽明天皇ですが、これをすぐに受け入れたわけではありませんでした。当時の朝廷では、この新しい教えを受け入れるべきかどうかで大きな議論が巻き起こります。特に有名なのが、蘇我氏と物部氏という二つの有力な豪族の対立です。蘇我稲目は仏教を積極的に取り入れるべきだと主張し、...

前略 還暦からの歴史再入門 古代日本 古墳時代 大和政権 豪族と大王の前方後円墳

古きを訪ねて新しきを知る「温故知新」 前略、還暦からの歴史再入門、今回のテーマは古代日本、古墳時代です。 大和政権と豪族たち、そして前方後円墳についてお話ししていきますね。 みなさん、こんにちは。今日も一緒に日本の古代史を旅していきましょう。学生時代、教科書でちらっと見た「前方後円墳」という言葉、なんだか難しそうな響きでしたよね。鍵穴のような形のお墓、というくらいの記憶がある方も多いんじゃないでしょうか。でも実はこの古墳時代、日本という国がどうやって形作られていったのか、その始まりを知る上でとても大事な時代なんです。今日はゆっくり、かみくだいてお話ししていきます。 まず古墳時代というのは、だいたい三世紀の後半から七世紀ごろまでを指す時代です。弥生時代の次に来る時代ですね。弥生時代には稲作が広まって、村同士がまとまって小さなクニのようなものができていきました。その延長線上で、力を持った豪族たちがさらに大きな勢力へと成長していったのが古墳時代です。名前の通り、この時代の大きな特徴は、各地に巨大なお墓、つまり古墳がたくさん作られたことにあります。 古墳にはいろいろな形がありますが、一番有名なのが前方後円墳です。丸い部分と四角い部分がくっついた、上から見ると鍵穴のような、あるいは瓢箪のような独特の形をしています。この形、実はほかの国にはあまり見られない、日本独自のスタイルなんですよ。大阪府にある大仙陵古墳、いわゆる仁徳天皇陵と伝えられているお墓は、全長がなんと四百八十六メートルもあります。東京ドームがすっぽり何個も入ってしまうくらいの大きさで、世界最大級のお墓のひとつとも言われています。子供の頃、写真で見て「こんな大きなお墓、いったい誰がどうやって作ったんだろう」と不思議に思った方もいらっしゃるかもしれませんね。 こうした巨大な古墳を作れたのは、それだけ強い力を持った権力者がいたからです。当時、日本列島の各地には豪族と呼ばれる有力な一族がいて、それぞれの地域を治めていました。その豪族たちの中でも、特に大きな力を持っていたのが、奈良盆地を中心に勢力を広げた大和政権です。ヤマト王権とも呼ばれますね。大和政権のトップに立つ人物は大王、おおきみと呼ばれていました。これがのちの天皇という存在につながっていくわけです。 面白いのは、前方後円墳という形のお墓が、奈良県だけでなく日本各地に...

前略 還暦からの歴史再入門 古代日本 弥生時代 邪馬台国 卑弥呼が魏に使いを送る

みなさん、こんにちは。「前略、還暦からの歴史再入門」の時間です。 今日は古代日本、弥生時代の後期、邪馬台国と卑弥呼のお話をしていきたいと思います。 学生時代、歴史の教科書で「卑弥呼」という名前を見た記憶がある方は多いんじゃないでしょうか。でも、あらためて「この人、いったい何をした人だったっけ」と聞かれると、案外はっきり答えられなかったりしますよね。今日はそのあたりを、じっくり振り返ってみたいと思います。 まず時代背景から整理しましょう。弥生時代というのは、稲作が本格的に広まり、人々がムラを作って定住するようになった時代です。稲作は豊かさをもたらす一方で、土地や水をめぐる争いも生みました。中国の歴史書「漢書」には、当時の倭、つまり日本列島には百あまりの小さな国々があったと記されています。まとまりのない小国分立の時代が長く続いていたんですね。 そんな中、日本列島は大きな争乱の時期を迎えます。中国の歴史書「魏志倭人伝」には、倭国が長い間乱れ、互いに攻め合っていたと書かれています。この混乱を収めるために、諸国が話し合って一人の女性を王として立てることにしました。それが卑弥呼です。 ここが興味深いところなんですが、卑弥呼は単なる政治のリーダーというより、「鬼道」と呼ばれる呪術的な力で人々の心をまとめた、いわばシャーマン的な指導者だったとされています。姿を見せることはほとんどなく、弟が政治の実務を助けていたとも伝えられています。神秘性をまとった存在として、国をまとめる象徴になっていたわけですね。 卑弥呼が治めた国、それが邪馬台国です。ただ、この邪馬台国がどこにあったのか、実はいまだにはっきり分かっていません。近畿地方の奈良盆地あたりとする「畿内説」と、九州北部とする「九州説」が長年対立していて、決着がついていないんです。奈良県の纒向遺跡が候補地として注目されたり、佐賀県の吉野ヶ里遺跡が話題になったり、発掘のたびにニュースになるのも、この論争がまだ生きているからなんですね。 そして今日のタイトルにもある、卑弥呼が魏に使いを送った出来事についてです。西暦239年、卑弥呼は難升米という家臣を使者として、中国大陸の魏という国に派遣しました。当時の中国大陸は魏・呉・蜀という三つの国が争う、いわゆる三国志の時代です。卑弥呼はその中の魏を選んで、朝貢を行ったわけです。 これはとても賢い外交判...

前略 還暦からの歴史再入門 古代日本 縄文土器

前略 還暦からの歴史再入門、今回のテーマは「古代日本 縄文土器」です。 暑さもようやく和らいで、博物館や資料館に足を運びやすい季節になってきました。冷房の効いた館内でガラスケースを覗き込みながら、ゆっくり歴史散歩、というのも贅沢な時間の使い方ですよね。今日はそんな展示室でよく主役を張っている「縄文土器」について、一緒に学び直してみましょう。 「縄文土器」と聞くと、教科書に載っていた茶色くて縄目模様のついた壺、というイメージを持つ方が多いのではないでしょうか。実はこの土器、今からおよそ1万6千年前から2千数百年前まで、なんと1万年以上にわたって作られ続けていたものなんです。1万年といってもピンとこないかもしれませんが、私たちが「もう半世紀前か」と懐かしむ昭和の記憶が、たった70?80年前のこと。その百数十倍もの長い時間、縄文の人々は土をこね、火で焼き固め、暮らしの道具を作り続けていたことになります。 なぜそんなに長く土器が使われ続けたのか。理由のひとつは「煮る」という調理法を手に入れたことにあります。それまで焼く・干すが中心だった食生活に、土器のおかげで「煮る」が加わりました。木の実のアク抜きができるようになったり、魚や貝を柔らかく食べられるようになったり。土器の登場は、いわば縄文人にとっての台所革命だったわけです。 模様にもちゃんと意味があります。おなじみの縄目模様は、文字通り縄を転がして表面に押し付けてつけたもの。単なる飾りというより、実用と美意識が一体になった工夫でした。中でも有名なのが、新潟県の信濃川流域で多く見つかる「火焔型土器」。燃え上がる炎、あるいは荒れ狂う波を思わせるような、驚くほど装飾性の高い造形です。煮炊きの道具にしては手が込みすぎているとも言われ、当時の人々が土器づくりに込めていた祈りや誇りのようなものを感じさせます。 地域ごとの個性が豊かなのも縄文土器の魅力です。関東の「勝坂式」、東北の「大木式」、新潟の「火焔型」など、同じ時代でも地域によって形や模様がまったく違います。インターネットもテレビもない時代に、それぞれの土地で独自の美意識が育まれていたのかと思うと、なんだか胸が熱くなりませんか。 ここで、実際に楽しむための小さなヒントをいくつかご紹介します。 まずは、お住まいの近くの県立・市立博物館の常設展示を覗いてみること。有名な国宝級の土器は東...