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【歴史雑学】東方見聞録に日本人はどう描かれていたのか?――西洋から見た謎の島国「ジパング」

みなさんは「東方見聞録」と聞くと、まず何を思い浮かべますか。多くの人がイメージするのは「黄金の国ジパング」でしょう。宮殿の屋根も床もすべて純金で覆われている、そんな夢のような描写があまりにも有名ですよね。でも実は、この本に書かれているのは富の話だけではありません。当時の日本人がどんな性格で、どんな社会を作っていて、そして何よりも、なぜあの最強と言われたモンゴル軍を二度も撃退できたのか、そんな人物像や国家像までもがしっかりと記録されているんです。今日はその「もう一つの東方見聞録」に注目してみましょう。 まず日本人の姿かたちや気質についての記述から見ていきます。東方見聞録には、日本人は色白で礼儀正しく、独自の信仰を持つ人々として描かれています。仏教や神道といった偶像崇拝の文化を持ちながらも、どこの国の支配も受けず、独立した君主のもとで暮らしている。これはヨーロッパの人々からすると、非常に珍しい存在に映ったはずです。当時のアジアの多くの地域が大きな帝国の支配下にあったなかで、遠く離れた島国が誰の言うことも聞かずに自分たちの秩序を保っている。それだけで十分に神秘的だったのでしょう。 ただ、その一方で、誇張や誤解に基づいた記述も少なくありません。たとえば、敵を捕らえたらその肉を食べるといった過激な描写が一部に紛れ込んでいます。これはおそらく、東南アジアや北方の異民族の風習と、伝聞の途中でごちゃ混ぜになってしまった結果だと考えられています。当時の情報網は、商人たちが港から港へ、口伝えで噂を広めていくようなものでした。まるで伝言ゲームのように、話が渡っていくたびに少しずつ形を変え、気づけばとんでもない怪奇譚に変貌していた。そう考えると、なんだか人間らしくて面白いですよね。 【歴史雑学】東方見聞録に日本人はどう描かれていたのか?――西洋から見た謎の島国「ジパング」: 黄金の宮殿、不死身の戦士、謎の風習――マルコ・ポーロが伝えた「ジパング」は本当の日本だったのか? 前略 還暦からの再入門 (まんたろう文庫)

【平安京遷都の闇】怨霊と権力闘争に翻弄された古代国家の真実

794年、桓武天皇によって都が平安京へ移されました。 「794年、平安京」 これは日本史を学んだ人なら、一度は覚えたことのある有名な年号でしょう。 そして平安京と聞けば、華やかな貴族文化、十二単、和歌、源氏物語など、雅やかな世界を思い浮かべる人も多いはずです。 しかし、平安京が誕生するまでの道のりは、決して華やかなものではありませんでした。 その直前には、わずか10年ほどで姿を消した「長岡京」が存在していたのです。 なぜ桓武天皇は、巨額の費用と人員を投入して造り始めた長岡京を捨て、もう一度新しい都を造らなければならなかったのでしょうか。 その背景には、政治的な権力闘争、皇族の死、暗殺事件、洪水、そして当時の人々が恐れた「怨霊」の存在がありました。 今回は、平安京遷都の裏側に隠された、古代国家のもう一つの姿を見ていきましょう。 ## 平城京から長岡京へ――なぜ都を移したのか 時代は奈良時代の終わり。 当時の都は平城京でした。 しかし、桓武天皇が即位すると、政治のあり方を大きく変えようとします。 桓武天皇が目指したのは、これまでの政治的なしがらみから距離を置き、新しい国家をつくることでした。 そして784年、都は平城京から長岡京へ移されます。 長岡京は現在の京都府長岡京市、向日市、大山崎町などにまたがる地域に造られました。 場所としても重要でした。 淀川水系につながり、水運を利用しやすい場所だったからです。 実際、長岡京市の資料でも、長岡京は水陸交通に便利な場所に築かれた都だったとされています。 つまり、長岡京への遷都には、単なる「古い都が嫌になった」という話ではなく、政治や交通、国家運営上の現実的な理由がありました。 ところが――。 この新しい都で、国家を揺るがす事件が起こります。 ## 藤原種継暗殺――新都を襲った衝撃 785年9月23日。 長岡京の造営を指揮していた重要人物、藤原種継が射殺されます。 藤原種継は、長岡京の建設を進める中心人物でした。 その人物が、都の建設途中で暗殺されたのです。 事件は単なる殺人事件では終わりませんでした。 翌日には関係者が次々と処罰され、さらに皇太子だった早良親王まで事件に連座したとされ、乙訓寺に幽閉されます。 早良親王は、桓武天皇の弟でした。 そして、その後の展開が、後世まで語り継がれる「怨霊伝説」につながっていきます。 早良親...

日本最古の通貨に隠された古代国家の知られざる通貨戦争と権力闘争の真実

みなさんは、日本で最初のお金というと何を思い浮かべるでしょうか。学校で習った記憶をたどれば、富本銭や和同開珎という名前が出てくる方も多いはずです。ですが、この二つの銅銭が生まれた本当の背景をご存じの方は、意外と少ないのではないでしょうか。実はこの通貨の誕生には、当時の朝廷が抱えていた切実な野望と、それに対する民衆や地方豪族の激しい抵抗という、教科書には載らない生々しいドラマが隠されているのです。 まず知っていただきたいのは、当時の日本では米や布による物々交換がごく当たり前に行われていたということです。そこに突然、金属でできた小さな板を「これがお金です、価値があります」と言われても、庶民からすれば戸惑うばかりだったでしょう。それでも天武天皇や持統天皇の時代から奈良時代にかけて、朝廷はなんとしても貨幣というものを世の中に根付かせようとしました。その理由の一つは、当時の東アジアの大国であった唐に対抗し、日本もまた中央集権のしっかりした国家であるという体裁を整えるためでした。貨幣を持つということは、いわば国家としての格式の証明でもあったのです。 朝廷の本気度がよくわかるのが、蓄銭叙位令という制度です。これは簡単に言えば、お金をたくさん貯めた者には位を与えるという、なんとも大胆なインセンティブ政策でした。今の感覚で言えば、貯金額に応じて社会的地位が上がるようなものです。しかしこの政策、狙いとは裏腹に思うようには広まりませんでした。人々はお金そのものの価値をまだ信じきれておらず、位をもらうためだけに銅銭を貯め込む酔狂な者は限られていたのです。 さらに朝廷にとって貨幣は、単なる権威の象徴以上の意味を持っていました。それは、平城京という巨大な都の建設や、東大寺の大仏建立といった、途方もない規模の国家事業を進めるための資金調達の手段でもあったのです。銅という原材料そのものはさほど高価ではありません。それを貨幣という形に変えて流通させることで、朝廷は実質的にわずかな元手から莫大な支払い能力を生み出そうとしました。いわば国家規模の錬金術です。しかしこのやり方は当然のように急激な物価上昇を招き、庶民や地方の豪族たちからは「こんな金属の輪っかより、米や布のほうがよほど信用できる」という強い反発を呼ぶことになりました。 そしてこの後、皇朝十二銭と呼ばれる一連の貨幣が次々と発行されていくのですが...

古米でもおいしく食べられる!ふっくら炊き上げる簡単な方法

「古米だから、どうしてもご飯がおいしく炊けない……」 そんなふうに思っていませんか? 実は、古米でも炊き方を少し工夫するだけで、ふっくらとおいしいご飯に仕上げることができます。 新米と古米では、お米の水分量や状態が違います。そのため、新米とまったく同じ感覚で炊くよりも、古米に合わせたひと工夫を加えることがポイントです。 今回は、家庭で簡単にできる「古米をおいしく炊く方法」を紹介します。 そもそも古米とは? 古米というのは、一般的には収穫された年から時間が経過したお米のことです。 時間が経つと、お米は少しずつ水分を失い、表面の状態も変化します。 そのため、新米と比べると、 「炊き上がりが少し硬い」 「パサついて感じる」 「香りが気になる」 といったことがあります。 でも、これは「古米だから食べられない」という意味ではありません。 水分の与え方や炊き方を工夫することで、食感を改善することができます。 方法1 お米をやさしく研ぐ まず大切なのが、お米の研ぎ方です。 「しっかり研がなければ!」 と思って力を入れすぎる必要はありません。 最近のお米は精米技術が高く、昔ほど強くゴシゴシ研ぐ必要はありません。 最初に水を入れたら、すぐに水を捨てます。 その後、指を立てるようにして、やさしくかき混ぜるように研ぎます。 ポイントは、力を入れすぎないこと。 お米を傷つけるような強い研ぎ方は避けましょう。 方法2 水加減を少し調整する 古米を炊くときに重要なのが水加減です。 古米は新米より水分が少なくなっている場合があるため、炊き上がりが硬く感じるときは、普段より少し水を増やしてみましょう。 ただし、一気に水を増やしすぎるのは禁物です。 まずは炊飯器の目盛りを基本にして、少しだけ増やすところから試してみます。 お米の種類や保存状態によって適量は変わるため、 「いつものご飯より少し硬い」 と感じたら、次回から少しずつ水を増やす。 これくらいの感覚で調整すると失敗しにくいでしょう。 方法3 すぐ炊かずに浸水する 古米をおいしく炊くために、ぜひ試してほしいのが「浸水」です。 お米に十分な水を吸わせてから炊飯することで、中心まで水分が入りやすくなります。 特に、炊き上がりが硬くなりやすい古米では、このひと手間が重要です。 炊飯器にお米と水を入れたら、すぐに炊飯ボタンを押さず、適切な時間浸水させて...

実は超ハイテクだった!? 東大寺南大門の金剛力士像に見る鎌倉時代の驚きの建築技術 東大寺南大門に立つ「巨大な門番」の正体

東大寺といえば、まず思い浮かぶのは巨大な大仏ですよね。 でも、東大寺を訪れたことがある人なら、境内に入る前から「なんだこれ、デカすぎる!」と驚いたことがあるかもしれません。 その場所が、東大寺南大門です。 そして南大門の左右には、ものすごい迫力で立っている二体の金剛力士像があります。 筋肉が盛り上がり、目を見開き、今にも動き出しそうな姿。 普通に見ると、「昔の職人さんが一生懸命、木を彫って作った巨大な仏像」という印象を持つかもしれません。 ところが、この金剛力士像。 よく調べてみると、単なる巨大な木彫像ではありません。 そこには、鎌倉時代の仏師たちが使った、驚くほど合理的な制作技術が隠されています。 しかも、南大門そのものも、巨大な建物を支えるための高度な木造技術が詰め込まれています。 今回は、東大寺南大門と金剛力士像を「昔の建物や仏像」という視点だけではなく、「鎌倉時代の技術」という視点から見てみましょう。 すると、歴史の教科書ではちょっと見えにくかった、鎌倉時代のすごさが見えてきます。 ## そもそも金剛力士像は何のためにいる? まず、金剛力士像について簡単におさらいしましょう。 東大寺南大門に安置されているのは、阿形像と吽形像です。 向かって左側が阿形、右側が吽形。 口を大きく開けた「阿形」と、口を閉じた「吽形」という組み合わせです。 この二体は、単なる門番のような存在ではありません。 仏教の世界では、寺院を守る守護神として重要な役割を持っています。 だからこそ、姿も非常に迫力があります。 「敵が来たら戦います!」 と言わんばかりの筋肉。 そして、鋭い目。 現代の感覚でいうと、寺院の入り口に超強そうな警備員が二人立っているようなものです。 ただし、ここで面白いのが、その作り方です。 あれだけ巨大な像を、一本の巨大な木から丸ごと削り出した……と思ってしまいますよね。 実は、そう単純ではありません。 ## 巨大な像を「パーツ」に分けて作る! 金剛力士像の制作では、「寄木造」と呼ばれる技法が使われています。 簡単にいうと、大きな仏像を最初から一つの木材で作るのではなく、複数の木材を組み合わせて作る方法です。 これ、現代の感覚で考えるとかなり合理的です。 たとえば、身長数メートルの巨大な人形を作るとします。 一本の木から全部を削り出そうとしたら、どうなるでしょうか。 ...

鎌倉時代 鎌倉幕府の8代執権・北条時宗、実は"英雄"ではなく"消耗品"だったのかもしれない 18歳で執権に、33歳で早世 元寇を救った男の知られざる代償

みなさんこんにちは。 今日は鎌倉時代の中でも、日本史上最大の国難のひとつと言われる元寇を乗り越えた人物、北条時宗についてお話ししていきます。 北条時宗といえば、教科書では「蒙古襲来を二度にわたって撃退した英雄的な執権」として紹介されることが多いですよね。文永の役、弘安の役と、当時世界最強とも言われたモンゴル帝国の大軍を二度も跳ね返した、まさに日本の危機を救った男。そんなイメージを持っている方も多いのではないでしょうか。 でも、彼の人生を少し詳しく見ていくと、単純な「英雄物語」では済まされない、かなり過酷な現実が見えてきます。今日はそんな北条時宗の、あまり知られていない一面についてお話ししていきたいと思います。 まず驚くのが、時宗が執権という鎌倉幕府のトップの座に就いたのが、なんと満18歳のときだったということです。現代で言えばまだ高校を卒業したばかりの年齢ですよね。しかもその時代背景は、モンゴル帝国から服属を迫る使者が何度も送られてきているという、まさに国家存亡の危機の真っ只中でした。 普通に考えれば、経験を積んだ大人がじっくり対応すべき外交問題です。それを10代の若者が、幕府という巨大な組織の頂点に立って背負わされることになったわけです。これはもう、本人の意思というよりも、北条得宗家という家柄の都合で「そこに座らされた」と言った方が正確かもしれません。 そして時宗がとった対応も、かなり強硬なものでした。フビライ・ハンから送られてきた使者を、服属を迫る内容だったこともあり、鎌倉の地で処刑してしまうんです。これは当時の外交の常識からしてもかなり異例な対応で、モンゴル側を本気で怒らせる決断でもありました。つまり時宗自身が、後に引けない戦いへと国を導いていったとも言えるんですね。 その後、文永の役、そして弘安の役と、二度にわたる元軍の襲来を迎え撃つことになります。運よく暴風雨に助けられた部分もありますが、それだけではなく、博多湾沿いに防塁を築かせるなど、現実的な防衛策も進めていました。ただ強運に頼っていたわけではなく、できる準備は淡々と進めていた、というのが実際のところのようです。 しかし、ここからが今日いちばんお伝えしたいところです。元寇という国難を乗り越えたあと、時宗を待っていたのは称賛だけではありませんでした。当時の御家人たちは、命がけで異国の敵と戦ったにもかかわら...

前略 歴史再入門 鎌倉時代 元寇 蒙古襲来 元軍による2度の日本侵攻に神風が吹く神風は本当にただの奇跡だったのか。鎌倉武士たちの必死の抵抗と、海の底に眠る沈没船が語る真実。

前略、歴史再入門です。 今日は鎌倉時代のビッグイベント、元寇についてお話ししていきます。蒙古襲来なんて言葉、学校の授業で聞いたことがある方も多いと思いますが、実はこの話、教科書で習うよりもずっとドラマチックで、しかもかなりギリギリの戦いだったんです。今日はそのあたりを、友達に話すような感じでゆるっと紹介していきますね。 まず時代背景から整理しましょう。当時のモンゴル帝国、これはもう人類史上最大級と言っていいくらいの超巨大帝国でした。ユーラシア大陸のほとんどを飲み込んでしまうくらいの勢いで、当時の皇帝はフビライ・ハン。チンギス・ハンの孫にあたる人物です。このフビライ、中国を支配して元という国を建てるんですが、彼の野望はそれだけでは終わりませんでした。次に狙いを定めたのが、海の向こうにある小さな島国、日本だったわけです。 フビライは最初、いきなり攻めてきたわけではありません。何度も使者を送って、日本に対して服従するように求めてきました。つまり、うちの家来になりなさい、貢ぎ物を送りなさい、という話です。ところが当時の鎌倉幕府、執権だった北条時宗という若きリーダーが、この要求をきっぱりと突っぱねます。使者を送り返す、なんてレベルではなく、後には使者を処刑してしまうという、かなり強気な対応まで取るんです。これがフビライの逆鱗に触れて、いよいよ本格的な侵攻へと発展していきます。 そして起きたのが一度目の襲来、文永の役です。これが1274年のことでした。元軍は高麗、今の朝鮮半島の軍勢も合わせて、数万人規模の大艦隊を組んで博多湾に押し寄せてきます。ここで日本側が驚いたのが、元軍の戦い方でした。当時の日本の武士というのは、一騎打ちの文化が根強く残っていて、名乗りを上げてから一対一で戦う、というスタイルが基本だったんです。ところが元軍はそんなルールお構いなしの集団戦法。太鼓や銅鑼を鳴らして統率された部隊で一気に押し寄せてくる。しかも「てつはう」と呼ばれる火薬を使った武器まで持ち込んでいて、これが炸裂すると大きな音と煙で馬が驚いてしまう。武士たちは初めて見る戦術と武器に、かなり苦戦を強いられました。 ところがここで最初の奇跡が起こります。元軍が上陸して戦った後、なぜか一旦船に戻って態勢を立て直そうとしていたところ、突然の暴風雨に見舞われてしまうんです。この嵐で元軍の船は大きな被害を受け、...

「弥生時代・邪馬台国・卑弥呼の後継ぎ、実は13歳の少女だった」卑弥呼の跡を継いだのは、まさかの十三歳。邪馬台国を救った少女王の知られざる物語

皆さん、こんにちは。 今日は邪馬台国の歴史の中でも、意外と知られていない不思議なエピソードをお話ししたいと思います。あの有名な女王・卑弥呼が亡くなったあと、いったい誰が国を継いだのか、というお話です。実はこの後継ぎ、まだ十三歳の少女だったんです。 卑弥呼といえば、三世紀ごろの日本に存在したとされる邪馬台国の女王で、中国の歴史書「魏志倭人伝」にその名が記録されている人物です。呪術のような力で国をまとめ、複数の小国が争っていた倭の国々をひとつにまとめあげたとされています。中国の魏の皇帝からは「親魏倭王」という称号を授かり、金印まで贈られたという記録も残っています。当時の東アジアにおいて、日本の存在がそれなりに重く扱われていたことがうかがえますね。 ところが、そんな卑弥呼が亡くなったあと、邪馬台国は大きな混乱に陥ります。魏志倭人伝によれば、卑弥呼の死後、男の王を立てようとしたものの、国内がまとまらず、争いが起きてしまったというのです。せっかく卑弥呼がまとめあげた国が、あっという間に分裂の危機を迎えてしまったわけですね。 この混乱を収めるために白羽の矢が立ったのが、卑弥呼の一族の少女だったと言われています。名前は「壱与」、あるいは「台与」とも読まれ、記録によって表記が揺れているのですが、いずれにしても、まだ十三歳という若さで女王に即位したとされています。現代の感覚で言えば、中学一年生か二年生くらいの年齢ですから、驚きですよね。 なぜこんなに若い少女が選ばれたのか、はっきりとした理由は分かっていません。ただ、卑弥呼自身も呪術的な力によって国をまとめていたとされることから、この一族の女性には、単なる政治力だけでなく、人々を導くような特別な存在感があったのかもしれません。争いが続く国をまとめるには、血筋の正統性に加えて、人々が納得できる象徴のような存在が必要だったのでしょう。少女が即位したことで再び国内がまとまったという記録が残っていることからも、当時の人々にとって、この選択がそれだけ重みを持っていたことが分かります。 興味深いのは、この十三歳の女王が即位したあと、邪馬台国が再び中国に使者を送っている点です。魏志倭人伝には、この時代の倭国が中国の王朝と外交関係を結び続けていたことが記されており、若い女王のもとでも、対外的な交渉がきちんと行われていたことがうかがえます。ただの飾りの...

古事記って結局何が書いてあるの?日本最古の物語をゆるく解説してみた 神様の恋物語からヒーローの冒険譚まで、日本最古の物語をやさしく紐解く

みなさん、こんにちは。今日は「古事記(こじき)」について、できるだけゆるーく、わかりやすくお話ししていきたいと思います。学校の授業で名前だけは聞いたことがあるけど、結局何が書いてあるのかよくわからない、そんな方も多いんじゃないでしょうか。実は私も、大人になってからちゃんと読んでみて「え、こんな話だったの!?」と驚いた口です。今日はその驚きをそのままみなさんにお届けできればと思います。 まず古事記が完成したのは712年、奈良時代の初め頃です。当時の天皇であった元明天皇に献上された、いわば「国が公式に認めた歴史書」のような立ち位置の本です。編纂したのは太安万侶(おおのやすまろ)という人物で、稗田阿礼(ひえだのあれ)という人が暗誦していた古い伝承を、太安万侶が文字に書き起こしたと言われています。当時はまだ日本独自の文字がなかったので、漢字を使いながらも、なんとか日本語の音やニュアンスを伝えようと工夫して書かれているんですね。この時点でもう「めちゃくちゃ苦労して作られた本なんだな」というのが伝わってきます。 では中身は何が書いてあるのかというと、大きく分けて3つのパートに分かれています。上巻・中巻・下巻です。上巻は「神代(かみよ)」と呼ばれる、神様たちの物語。中巻は初代天皇である神武天皇から、応神天皇あたりまでの物語。下巻はさらにそのあとの天皇たちの物語が続きます。つまり古事記は、単なる神話集ではなく「神様の時代から始まって、天皇の歴史につながっていく壮大な一本の物語」として作られているんです。これがまず面白いポイントで、日本という国のルーツを、神話と歴史をひと続きのストーリーとして語ろうとしているんですね。 上巻の神様パートが、実はいちばんエンタメ性が高くて面白いです。世界の始まりから話が始まって、イザナギとイザナミという男女の神様が登場し、この二人が日本列島や、さまざまな神様たちを生み出していきます。ただ、このイザナミが火の神様を産んだときに大やけどを負って亡くなってしまい、夫のイザナギが「会いたい」と思って黄泉の国(死者の国)まで会いに行くという、なんともドラマチックな展開になります。ところが黄泉の国で変わり果てた妻の姿を見てしまい、イザナギは驚いて逃げ出してしまう。怒ったイザナミに追いかけられて、命からがら現世に戻ってくる…という、ちょっとホラーめいた展開もあったり...

【昭和の常識は令和の非常識】昔のテレビが面白かった本当の理由…今では絶対放送できないヤバい演出: コンプラ無視の爆破ロケから個人情報ダダ漏れまで!?熱狂とカオスの時代を振り返る (まんたろう文庫)

みなさん、こんにちは!最近のテレビを見ていて、「なんだか優等生すぎるな」「どこかで見たような無難な企画ばかりだな」なんて感じたことはありませんか? コンプライアンスが厳しくなり、SNSでの炎上を避けるために、今のテレビ番組は本当に丁寧に、そして安全に作られていますよね。もちろん、誰も傷つけないクリーンな番組作りは素晴らしいこと。でも、ふと昔のテレビ番組を思い出すと、今の常識では考えられないような、むちゃくちゃで、エネルギーに満ち溢れた「ヤバい演出」のオンパレードでした。 今回は、【昭和の常識は令和の非常識】と題して、昔のテレビがどうしてあんなに面白かったのか、その本当の理由と、今では絶対に放送できない伝説的なエピソードの数々を、たっぷり振り返っていきたいと思います。当時の熱気を知っている方は「あったあった!」と懐かしみながら、平成・令和世代の方は「昔の日本、どんだけカオスだったの!?」と驚きながら、ぜひ最後までお付き合いくださいね。 規格外の爆破とカーチェイス!伝説の刑事ドラマ 昭和のテレビのヤバさを語る上で絶対に外せないのが、刑事ドラマのスケールの大きさです。今のドラマはCG技術が発達しているので、爆発シーンも安全にパソコン上で作れてしまいますよね。でも、昭和はすべてが「ガチ」の物理現象でした。 特に伝説として語り継がれているのが、毎週のように大爆破とカーチェイスを繰り広げていたあの超有名刑事ドラマ。なんと、ドラマの撮影のためだけに、本物の市街地を封鎖して、数千万、いや数億円単位の予算を注ぎ込んで車や建物を実際に爆破していたんです。 車好きにはたまらない(同時に少し胸が痛む)エピソードですが、画面を駆け抜けていたのは、60年代から70年代にかけての国産スポーツカーや高級車たち。日産のフェアレディZや、重厚感のあるセドリック、グロリアといった今ではとんでもないプレミア価格がついている名車が、惜しげもなくカースタントに投入され、横転し、炎上していました。 あのフェアレディZの美しい流線型のボディが、犯人とのカーチェイスの末にボロボロになっていく姿は、当時の視聴者をブラウン管の前に釘付けにしました。今、同じことをやろうとしたら、予算の問題以前に「貴重なクラシックカーを壊すな!」と世界中の旧車ファンから大ブーイングが起きて、即座に炎上騒動になるでしょう。でも、その「本物」...

前略 還暦からの歴史再入門 古代国家 奈良時代 平城京 東大寺に大仏建立 平城京に都を移す 天然痘と飢饉に苦しんだ聖武天皇はなぜ大仏を造ったのか、平城京遷都から国家的大事業の舞台裏まで

古きを訪ねて新しきを知る「温故知新」 前略、還暦からの歴史再入門、今日は奈良時代の幕開け、平城京への遷都と、東大寺の大仏建立についてお話ししていきたいと思います。前回までは飛鳥時代の大化の改新や大宝律令についてお話ししてきましたが、そうした国づくりの土台の上に、いよいよ奈良時代という新しい時代が始まっていきます。それでは早速見ていきましょう。 710年、都は藤原京から平城京へと移されます。これが今の奈良市のあたりにあたる場所です。それまでの都というのは、天皇が代わるたびに新しい場所に移すのが習わしでした。ところが平城京からは、しばらくの間、同じ場所に都が据え置かれるようになります。これは、大宝律令によって整えられた律令国家のしくみが、腰を据えてじっくり運営していく段階に入ったことを意味しています。国のしくみが整ってきたからこそ、都もどっしり構えられるようになった、というわけですね。 平城京は、当時の中国、唐の都であった長安をお手本にして作られました。碁盤の目のように整然と区画された都市計画で、中央には朱雀大路という広い大通りが南北に貫き、その両側に貴族や役人の屋敷、そして市場などが整然と並んでいました。人口は最盛期で十万人ほどにもなったと言われていて、当時としては東アジアでも屈指の大都市だったんです。海の向こうの進んだ都市計画を取り入れながら、日本なりの都をつくり上げていく、そのエネルギーには驚かされますね。 さて、この奈良時代を語るうえで欠かせないのが、聖武天皇による東大寺の大仏建立です。聖武天皇の治世は、決して穏やかなものではありませんでした。都では貴族同士の権力争いが絶えず、さらに天然痘という感染症が大流行して、多くの命が失われるという大変な時代だったんです。加えて各地では飢饉や災害も相次ぎました。こうした度重なる災いに、聖武天皇は深く心を痛め、仏教の力によって国を守り、人々の不安を鎮めようと考えるようになります。 そこで聖武天皇が発したのが、大仏造立の詔という命令です。743年に出されたこの詔では、国じゅうの銅を集め、山を削るほどの労力をかけてでも、大きな仏像を造り上げるのだという強い決意が示されています。単に立派な仏像を造りたいという話ではなく、国全体が心を一つにして仏の力にすがり、平和で安定した国をつくろうという、切実な願いが込められていたんですね。 大...

前略 還暦からの歴史再入門 古代国家 飛鳥時代 大宝律令 全国支配のための基本法 律令国家 天皇中心の理想はどうやって現実の法律になったのか、租庸調から二官八省まで律令国家のしくみを読み解く

古きを訪ねて新しきを知る「温故知新」 前略、還暦からの歴史再入門、今日は飛鳥時代の締めくくりとも言えるテーマ、大宝律令についてお話ししていきたいと思います。前回は大化の改新のお話をしましたが、あの改革をきっかけに動き出した国づくりが、一つの完成形として結実したのが、この大宝律令なんです。それでは早速、当時の状況から見ていきましょう。 大化の改新から半世紀ほどが経った701年、朝廷は大宝律令という法律を完成させます。これは日本で初めて本格的に整えられた、律と令という二本柱からなる法典です。 律というのは今で言う刑法にあたるもので、どんな行為が罪になり、どんな罰が科されるかを定めたものです。令のほうは、今で言う行政法や民法にあたるもので、政治のしくみや、役所の仕事、税の取り方、土地の扱い方など、社会全体のルールを細かく定めたものになります。 この二つがセットになって初めて、国全体を一つの法律で治める律令国家というものが成り立つわけです。 なぜこの大宝律令がそれほど重要なのか、そこをお話ししたいと思います。大化の改新のところでもお話ししましたが、あの時代はまだ、天皇中心の国づくりという方向性が示されただけの段階でした。理想は掲げたけれど、それを実現する細かいルールがまだ整っていなかったんですね。 豪族たちの力もまだ完全には抑え込めていませんでしたし、地方の役人をどう配置して、どんな仕事をさせるのか、税をどんな比率でどうやって集めるのか、そういった具体的な仕組みが手探りの状態でした。大宝律令は、そうした手探りの試行錯誤に、一つの明確な答えを出したものだと言えます。 具体的な中身を少し見ていきましょう。まず中央の政治のしくみとして、二官八省という組織が整えられました。神様を祀ることを担当する神祇官と、実際の政治を行う太政官という二つの官庁を頂点に置いて、その下に八つの省を配置し、それぞれが財政や、儀式や、軍事や、司法といった仕事を分担する形になっています。今で言う各省庁のようなものが、このころにはすでに原型としてできあがっていたんですね。 地方についても、国、郡、里という単位で統治するしくみが、より細かく整備されました。国司という役人を中央から派遣して、各地の政治を任せる。この国司という言葉、時代劇などでも耳にしたことがある方も多いんじゃないでしょうか。中央から人を送り込んで...

前略 還暦からの歴史再入門 古代国家 飛鳥時代 大化の改新 天皇中心の国家づくり 権力を握った蘇我氏はなぜ滅びたのか、中大兄皇子と中臣鎌足が目指した新しい国のかたちとは

古きを訪ねて新しきを知る「温故知新」 前略、還暦からの歴史再入門、今日は飛鳥時代の後半、大化の改新についてお話ししていきたいと思います。皆さん、大化の改新という言葉、学生時代に一度は聞いたことがあると思います。645年、乙巳の変という事件から始まる一連の政治改革のことですね。ただ、当時は年号を覚えるだけで精一杯で、実際にどんな中身だったのか、きちんと理解できていた人は案外少ないんじゃないでしょうか。今日はそのあたりを、じっくりゆっくりお話ししていきますので、どうぞ最後までお付き合いください。 まず時代背景からお話ししましょう。飛鳥時代、聖徳太子が亡くなったあと、朝廷の中では蘇我氏という一族が非常に大きな力を持っていました。蘇我馬子、そしてその息子の蝦夷、さらにその子の入鹿と、三代にわたって天皇家をしのぐほどの権力を握っていたんです。特に蘇我入鹿は、聖徳太子の息子である山背大兄王を自害に追い込むなど、かなり強引なやり方で権力を固めていきました。天皇を上回るような振る舞いをする豪族の存在に、危機感を抱いた人たちがいたわけですね。 その危機感を持った代表格が、中大兄皇子と中臣鎌足です。中大兄皇子はのちの天智天皇、中臣鎌足はのちの藤原鎌足として、日本史に大きな名前を残すことになる二人です。この二人が中心となって、蘇我氏を打倒する計画を練っていきました。そして645年、飛鳥板蓋宮という場所で、朝鮮半島の使者を迎える儀式の最中に、蘇我入鹿を暗殺するという大事件が起こります。これが乙巳の変です。突然の出来事に父親の蝦夷も観念し、自ら邸宅に火を放って命を絶ちました。こうして権勢を誇った蘇我氏の本流は、あっという間に滅びてしまったんですね。 さて、ここからが本題の大化の改新です。蘇我氏を倒しただけでは政治は変わりません。中大兄皇子たちが本当にやりたかったのは、その先にある国のかたちを大きく作り変えることでした。当時の日本は、豪族たちがそれぞれ土地や人民を私有し、まるでミニ国家のようにバラバラに支配している状態だったんです。これでは中央でどれだけ立派な政治をしようとしても、地方はてんでばらばら、税もきちんと集まらないし、いざというときに国全体で動くこともできません。そこで中大兄皇子たちは、天皇を中心とした一つの強い国家をつくろうと考えたんです。 この改革の中で特に重要なのが、公地公民と...

前略 還暦からの歴史再入門 古代国家 飛鳥時代 法隆寺 聖徳太子が建てた寺院 千四百年前の建物が今も立つ理由 聖徳太子と法隆寺の物語

古きを訪ねて新しきを知る「温故知新」 皆さん、こんにちは。 前略、還暦からの歴史再入門、今日は飛鳥時代のお話です。前回は仏教が日本に伝わったところまでお話ししましたね。百済から仏像やお経が贈られてきて、それを受け入れるかどうかで蘇我氏と物部氏が対立した、というところまで進みました。今日はその続き、いよいよ聖徳太子が登場する時代のお話です。 飛鳥時代というのは、だいたい六世紀の終わりごろから七世紀の終わりごろまでを指す時代でして、奈良盆地の南、今の奈良県明日香村のあたりに都が置かれていた時代のことを言います。この時代の主役の一人が、皆さんもよくご存知の聖徳太子です。 聖徳太子は、用明天皇の息子として生まれました。子供の頃から大変聡明だったと伝えられていて、十人の話を同時に聞き分けて理解したという逸話まで残っているほどです。本当かどうかはさておき、それくらい優秀な人物だったということが後世まで語り継がれているわけですね。 さて、蘇我氏と物部氏の対立ですが、これは仏教を受け入れるかどうかという宗教的な対立であると同時に、実は朝廷内での権力争いでもありました。この戦いに勝利したのが蘇我氏でして、その後、蘇我馬子という人物が中心となって政治を進めていくことになります。そして推古天皇が即位すると、聖徳太子はその摂政として、蘇我馬子とともに国づくりを担っていくことになるのです。 聖徳太子が行ったことの中でも、特に有名なのが冠位十二階と十七条の憲法です。冠位十二階というのは、家柄ではなく個人の能力や功績によって役人の位を決める制度でして、それまでの日本にはなかった新しい考え方でした。十七条の憲法のほうは、法律というよりも、役人たちの心構えを説いたもので、「和をもって貴しとなす」という言葉は、皆さんも一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。この言葉、実は聖徳太子が作ったこの憲法の第一条に出てくる言葉なんです。 そしてもう一つ、聖徳太子が力を入れたのが仏教の振興でした。仏教を単なる外国の宗教としてではなく、国を治めるための精神的な支えとして活用しようと考えたんですね。そこで建てられたのが、今日のテーマでもある法隆寺です。 法隆寺は、聖徳太子が推古天皇や父である用明天皇の病気平癒を願って建てたと伝えられているお寺で、奈良県の斑鳩というところにあります。創建は607年頃とされていまし...