雨のにおいが部屋に染みついて、畳がじっとりと湿っていた。
「また梅雨ね……嫌になっちゃう」そう独り言を漏らしながら、私は夜の寝室で扇風機を弱く回した。
夫は今夜も出張。もう慣れたはずなのに、どういうわけか今日は妙に胸がざわつく。
その理由はわからない。ただ、湿り気を帯びた空気が、肌を優しく撫でてくるような気がした。
――パサッ。
その時だった。障子の向こうで、誰かの衣擦れの音がした。
「……あなた? もう帰ってきたの?」
返事はない。けれど、気配だけは確かにある。
私はそっと布団を抜け出し、畳に足を下ろす。ひんやりとした感触が、ふくらはぎをじわりと冷やした。
――ギッ……ギッ。
足音。明らかに、夫より軽く、そしてゆっくりと近づいてくる足音。
「ちょっと……誰なのよ。やめてよ、怖いじゃない……」
そう言いながらも、私はなぜか逃げなかった。むしろ、胸の奥のざわつきは次第に甘い熱へと変わっていく。
障子が、すうっと揺れた。
「ねぇ……そこにいるの?」
返事の代わりに、そよ風のような気配が肩に触れた。
ひっ、と小さく声が漏れた。でも、それは痛みでも恐怖でもない。“懐かしい”感触だった。
「……あなたじゃないわよね。わかってる。でも……どうして?」
まるで問いかけに応えるように、気配が背中へ回り込む。湿った畳を踏む音が、耳元でするほど近い。
私は身体を固くしたまま、目を閉じた。
すると、誰かの指先のようなものが、そっと腰へ触れた。空気より軽くて、それでいて確かな“手”。
「だめ……そんな触り方……」
誰もいないはずの部屋で、私は声を漏らしていた。
夫にもこんなふうに触れられたのは、いつ以来だろう。
寂しさと、女性としての焦がれるような感情。そのどちらも、気配は見透かしているかのようだった。
――トン。
軽い音が足元でした。見れば、畳に小さな水滴が落ちている。
あれ? と息が詰まり、顔を上げた瞬間、気配がすっと消えた。
「……どこ行ったの? まだ……」
手を伸ばしても、もう何も触れられない。
けれど、湿った畳には確かに“足跡”が二つ残っていた。私のものと、もうひとつ、夫ではない誰かのもの。
「……ねぇ、また来るの? 私……待ってるかもしれないわよ」
そう言った自分の声が、妙に艶っぽく響いた。
風が、返事の代わりに障子を揺らした。
コメント
コメントを投稿