「ねえ、すき焼きって、不思議よね。誰と食べるかで味が変わるのよ」
そんな独り言を言いながら、私は台所で割り下を温めていた。甘さの奥にほのかな苦味…夫とよく作った、あの懐かしい香りだ。
「はあ…また思い出してる」
寂しさをごまかすように笑ったその時――
ピンポーン。
「来た…早いわね」
胸がどくりと跳ねる。来るとわかっていても、落ち着かないのはどうしてだろう。
玄関を開けると、隣の部屋に住む健斗くんが立っていた。年下なのに、どこか不器用で真面目な雰囲気がある子だ。
「こんばんは。本当に…いただいていいんですか?すき焼き」
その遠慮がちな声に、胸が温かくなる。
「ええ、ひとりじゃ食べきれないもの。食べてくれたら助かるわ」
そう言うと、健斗くんは照れたように微笑んだ。
部屋に招き入れると、並べた具材を見ながら彼がぽつりと言った。
「…こういうの、落ち着きますね。家庭の匂いっていうか」
その言葉が少し胸に刺さる。もう“家庭”と呼べる場所が、私は失われてしまったから。
「ほら、座って。あなた、すき焼きって何から入れる派?」
「肉…ですかね」
「若いわね。まずはネギよ。香りが立つと、それだけで心がほどけるの」
ジュッとネギが焼ける音。甘い香りが湯気と一緒に広がっていく。
ふたりで鍋を覗き込むと、自然と距離が縮まり、腕が少し触れた。
「ねえ健斗くん」
「はい」
「私ね、誰かと鍋を囲むなんて…本当に久しぶりなの」
言った瞬間、健斗くんの表情が変わる。
「…僕でよかったんですか?」
その真っ直ぐな問いが胸を揺らす。
「よかったかどうかなんて、もう考えないでおくわ」
そう答えると、彼は小さく息を呑んだ。
私は鍋からすくった肉を、彼の皿にそっと置いた。
「どうぞ。熱いから気をつけて」
「…ありがとうございます。なんか、緊張します」
「落ち着いて。私だって緊張してるもの。年下の男の子を夕飯に誘うなんて、未亡人のくせにって思われそうでしょ?」
「そんなこと…思いませんよ。むしろ嬉しいです」
その声は優しくて、少し震えていて、私の心まで熱を帯びていく。
「健斗くん…」
名前を呼ぶと、視線が絡まり、距離がまたひとつ縮まった。
湯気が立ちのぼる鍋の向こうで、世界がふたりきりになったように静かになる。
すき焼きの甘い香りと、触れそうで触れない距離感。
その全部が――少しだけ背徳の味がした。
――今夜のおかずはすき焼き。
でも、私の心が求めていた温かさは、きっともっと別のところにあった。
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