──四十を過ぎて知った、心と体の“溶け方”。
朝の光がカーテンの隙間から差し込み、シーツの皺をなぞるように広がっていく。その光の中で、自分の手がやけに白く見えた。
指先がかすかに震えている。理由は分からない。ただ、昨夜の夢の名残がまだどこかに残っている気がした。
誰かの声、体温、息。目が覚めるとすべて消えてしまうのに、胸の奥だけがじんわりと熱を帯びている。
鏡の前に立つ。髪をまとめ、口紅を塗る。その動作の一つ一つが、なぜかゆっくりになっていく。
唇の輪郭をなぞるたび、知らない女の顔がそこに映っているような気がした。
「……まだ、女でいられるのかしら」
独り言のように呟く。返事はない。代わりに、鏡の中の女がふっと微笑んだ。
夫は、もう長いこと私を“見て”いない。
食卓で交わす言葉は天気とニュースばかり。
互いに穏やかで、穏やかすぎて、そこに熱がない。
それでも私は、食器を並べ、洗濯物を干し、ちゃんと妻でいようとする。
けれど夜になると、胸の奥のどこかが、そっと疼く。
それを押し殺すように、私は電気を消し、闇の中で息を潜める。
週末、喫茶店の窓際。
コーヒーの湯気が頬を撫でていく。
その香りに包まれながら、目を閉じる。
すると、不意に“視線”を感じた。
ゆっくりと目を開けると、ガラス越しにこちらを見つめる男がいた。
柔らかな光の中で、その瞳だけが深く沈んで見える。
知らない人なのに、なぜか懐かしい。
胸の奥で、ゆっくりと果実が熟していくような感覚。
ほんの一瞬、息が止まった。
コーヒーの香りが、甘く、重たく、肌の内側に沁みていく。
──その日、私の中で、長い冬が終わり始めた。
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