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【昭和の記憶】給食・駄菓子・ファミコン——昭和の子どもたちの放課後



学校のチャイムが鳴った瞬間、子どもたちは一斉に走り出しました。

ランドセルを家に放り投げて、また外へ飛び出す。

親に「どこ行くの」と聞かれても、「そこらへん」と答えて消えていく。

昭和の放課後は、子どもたちだけの王国でした。

給食・駄菓子・ファミコン
給食・駄菓子・ファミコン



まず、給食の話から始めましょう。

昭和の給食といえば、何といっても「脱脂粉乳」です。

戦後の食糧難の名残で、昭和30年代まで牛乳の代わりに出されていたもので、独特の臭みがあり、苦手な子どもが続出しました。


昭和40年代には瓶入りの牛乳に切り替わりましたが、脱脂粉乳を知っている世代には、給食イコールあの匂い、という記憶がある方も多いはずです。


献立は今よりずっとシンプルでした。

コッペパンにマーガリン、スープ、脱脂粉乳??これが基本セット。

ごはんが給食に登場するのは昭和51年以降のことで、それまでパンが毎日続きました。

クジラの竜田揚げも、昭和の給食の定番です。


当時、クジラは安価なタンパク源として重宝されており、給食に頻繁に登場しました。

好きな子もいれば、独特の臭みが苦手な子もいて、好き嫌いがはっきり分かれるメニューでした。

そして給食には、独特のルールがありました。


「残してはいけない」という先生の言葉は絶対で、給食が終わっても食べ終わらなかった子は、昼休みも教室に残って食べ続けなければならない。

今では考えられない光景ですが、当時はそれが普通でした。


それでも、揚げパンが出た日は別格でした。

砂糖やきな粉がまぶされた揚げパンが給食に出る日は、朝から子どもたちの間で話題になる。

昭和の給食メニューの中で、今でも「また食べたい」と語られる筆頭が、この揚げパンです。



学校が終わると、子どもたちが向かうのは駄菓子屋です。

駄菓子屋は、昭和の子どもたちの社交場でした。

おばあちゃんが一人で切り盛りしている小さな店に、学校帰りの子どもたちが押し寄せる。


握りしめた小銭は、だいたい10円か20円。

それでも、店の中には選びきれないほどのお菓子が並んでいました。

うまい棒が10円。

よっちゃんいかが10円。

ビッグカツが10円。

くじ引きが一回10円。

10円玉一枚で、どれを買うか真剣に悩む。


その時間が、子どもたちにとって至福のひとときでした。

スーパーボールすくいや、射的ゲームが置いてある店もありました。

スーパーボールを水の入ったたらいの中からすくい上げるだけなのに、なぜかものすごく楽しかった。

駄菓子屋のおばあちゃんは、子どもたちの顔と名前を全員覚えていました。


「今日は100点取れたか」「宿題やったか」と声をかけてくれる。

今でいう地域の見守りを、駄菓子屋が自然に担っていたんです。

そんな駄菓子屋は、昭和が終わり、コンビニが普及するにつれて急速に姿を消していきました。

全国に数万軒あった駄菓子屋が、今では数えるほどしか残っていません。

あの狭い店の中に、昭和の子どもたちの放課後がぎゅっと詰まっていました。



駄菓子屋の次は、空き地です。

昭和の街には、空き地がたくさんありました。

草がぼうぼうに生えた、何もない土地。

大人には何の価値もない場所が、子どもたちには最高の遊び場でした。


野球、缶蹴り、鬼ごっこ、陣取りゲーム。

ルールは自分たちで決めて、審判も自分たち。

もめたら自分たちで解決する。


今の子どもたちが習い事や塾のスケジュールで放課後を過ごすのとは対照的に、昭和の子どもたちは時間をもてあましていました。

もてあました時間の中から、遊びを自分たちで生み出していた。


夕方5時になると、町内のサイレンが鳴ります。

「帰りの時間だ」と、子どもたちは一斉に走って家に帰る。

そのサイレンを聞くまでは、ずっと外にいる。


虫取り、秘密基地作り、川での魚取り。

怪我をするのも、泥だらけになるのも日常でした。

親は今ほど過保護ではなく、多少の傷や汚れは「子どものうちは当たり前」という空気がありました。



そして、昭和の放課後を語るうえで絶対に外せないのが、ファミコンです。

ファミリーコンピュータ、通称ファミコンが発売されたのは1983年(昭和58年)7月15日。

価格は1万4800円でした。


最初は「こんなもので遊ぶのか」と半信半疑だった親たちも、子どもたちが画面に釘付けになる姿を見て、次第に認めるようになっていきました。


クラスで最初にファミコンを買ってもらった子の家には、近所の子どもが全員集まりました。

一台のファミコンを、五人、六人で囲んで、順番を待ちながら遊ぶ。

コントローラーを握っていない子も、画面を食い入るように見ている。

ドンキーコング、マリオブラザーズ、野球、テニス。


最初のソフトはどれもシンプルなものでしたが、子どもたちには十分すぎるほど面白かった。

翌年1984年には「ファミスタ」の元となる野球ゲームが、1985年には「スーパーマリオブラザーズ」が登場します。

スーパーマリオが出た瞬間、日本中の子どもたちの放課後が変わりました。

「昨日のステージどこまで行った?」が、翌日の学校での最初の会話になる。

ファミコンは、子どもたちの遊び場を外から室内へと引き寄せた最初の存在でした。


空き地や路地裏で遊んでいた子どもたちが、少しずつ家の中に吸い込まれていった。

昭和の放課後の風景が変わり始めた、その転換点がファミコンだったといえるかもしれません。



昭和の放課後、あなたはどこで何をして遊んでいましたか?

「駄菓子屋のくじ引きが好きだった」

「空き地で缶蹴りをやっていた」

「クラスで最初にファミコンを買ってもらった」

どんな記憶でも、ぜひコメントで教えてください。

あの頃の話を、みんなで振り返りましょう。



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