雨が降り続ける夜だった。窓の外に広がる街の景色は、無数の光の屈折が揺れる水面となってぼやけていた。そんな時、彼女からの声が電話越しに届いた。 その声は、十年前と何も変わっていないようでいて、どこか違う――少し掠れたような低さと、ほんのかすかな疲れの色が混ざっていた。 「今日だけ、会えないかしら?」 言葉の端々に漂うためらい。それでも、その背後には、逆らえない引力のようなものがあった。拒もうとする理性は、彼女の声の響きに溶けて消えていく。俺は、無意識のうちにうなずいていた。 彼女の住むアパートの一室は、かつての記憶を呼び起こす香りが漂っていた。微かな檜の香りと、彼女が好きだったラベンダーのアロマ。それらに包まれていると、時間が経ったことを忘れてしまいそうになる。しかし、目の前にいる彼女の瞳には、年月の重さが確かに刻まれていた。それは、ただ老いや疲労を感じさせるものではなく、むしろ深みを増した輝きとも言えた。彼女がどんな時間を過ごしてきたのか、その一端が少しだけ見えた気がする。 「あなたにだけは、見せたくなかったのよ。」 彼女はそう呟き、目を伏せた。俺たちは言葉を失い、ただ雨音に耳を傾けている時間だけが過ぎた。けれど、耳を塞ぎたくなるような静寂と違い、この沈黙には奇妙な居心地の良さがあった。 あの頃、俺たちは激しい感情でつながっていた。若さが持つ過剰な情熱、それに翻弄される幼稚な不安。それを"愛"と呼んでいたけれど、それが本当の愛だったかどうかは今となってわからない。 「触れても、いいか。」 その言葉が口からこぼれた瞬間、自分でも驚いた。なぜそんなことを言ったのか、自分でも説明できなかった。ただ、彼女の目の奥に潜む何かに触れたいと、心が動いてしまったのだ。 彼女は一瞬だけ目を閉じ、そして、ゆっくりと頷いた。その仕草にどれほどの感情が込められていたのか、俺には全てを理解することはできない。ただその刹那、彼女が俺の中に深く入り込んでくる感覚があった。それは、言葉ではとうてい表現できないほど繊細であり、また、激しく脈打つものでもあった。 俺たちはゆっくりと近づき、互いの過去に触れるように、慎重に唇を重ねた。その瞬間、これまでのすべてが崩れる音が聞こえた気がした。罪悪感と渦巻く欲望。その狭間に立ちながらも、俺たちは気づいていた。この瞬間が、過去と未来を区切り...