この歳になって、心がこんなにも揺さぶられるなんて思いもしなかった。結婚生活は穏やかで、何の波風もない。いや、波風を立てる気力すらもう俺には残っていなかったのかもしれない。
妻との会話は義務のようなものばかりで、その笑顔もいつの間にか古い写真でしか見られなくなった。それが日常だった。だが、彼女と会うまでは。
初めて彼女を見たのは、去年の春だった。会社の飲み会にたまたま彼女が顔を出したのがきっかけだった。年齢は俺より少し下くらいだろうか、堂々として上品な佇まいが印象的で、その目に宿る落ち着きと、ほんの少しの寂しさが俺をとらえた。赤いワインのグラス越しに目が合った瞬間、何かが胸の奥で弾けたのを覚えている。
「最近、何か楽しみはありますか?」と彼女から聞かれたとき、俺は答えに窮した。楽しい、と感じることがどんなものだったのか、まるで思い出せなかったからだ。そう言ったら彼女は小さく笑った。「同じですね、私もです」と。
その日から、俺は彼女を意識するようになった。社内で彼女とすれ違うたびに、自然と目で追ってしまう。お互いの足音だけが響く廊下で小さく会釈し合う瞬間の緊張感。何も特別なことがないはずなのに、彼女の香りすら頭に残る。そして、その香りを思い出しては、眠れぬ夜を過ごすことが増えた。
ある日、帰りがけに会社近くのカフェでばったり鉢合わせた。偶然の再会にぎこちなく笑い合い、自然とテーブルを共にした。人目を気にしていたはずなのに、不思議とそのときだけは周囲の喧騒が遠ざかったように感じた。彼女と話していると、自分が自分でいる感覚が戻ってくるのだ。不思議だった。結婚して何十年も妻と過ごしてきたのに、いつしか忘れていた感情が、この短い時間で蘇るなんて。
「本音を言える相手って貴重ですね。」彼女が何気なくそう言ったとき、俺の胸は音を立てて崩れるようだった。その言葉が、俺自身に対する本音でもあったからだ。もはや彼女と話すたびに、心の中で妻との日常を裏切っていると感じた。でもその罪悪感すら、彼女の前ではかすんでしまう。不誠実だとわかっている。ただ、その人肌の温もりが欲しくてたまらなかった。
梅雨が明けた頃、俺たちはついに一線を越えた。一緒に過ごしたその夜、ホテルの部屋の中で、何も聞かず、何も言わせないほど、激しいキスを交わした。彼女の肌に触れるたびに自気づけば、俺はただ彼女に溺れていた。彼女の指先が頬を撫でるたびに、長い間凍りついていた心が溶けていくのを感じた。彼女の声、吐息、そしてほんの少し絞り出すような甘い言葉に、理性は簡単に崩れ去った。
「この瞬間だけでいい、幸せだと思いたいの。」そう言われたとき、俺の胸の奥に鋭い痛みが走った。それでも俺は彼女を抱きしめた。
罪悪感は当然そこにあった。だが、それを上回るほど、彼女との時間は俺の心を色濃く染め上げていった。まるで、何年も止まっていた時計が再び動き出したかのようだった。
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