定年退職の日、職場の机を片付けながら、どこか肩の荷が下りたようでありながらも、ぽっかりと空いてしまった心の穴に気づいていた。長年、人付き合いや仕事に追われていた日々。その日々が終わった今、自分には何が残されているのか、それが分からないまま時間だけが過ぎていった。
退職後、家で過ごす日々は予想以上に退屈で味気ないものだった。妻とは長い時間を共にしているにもかかわらず、どこか他人のような距離感があった。欲望も、愛情も、いつしか言葉さえも失われ、日常の積み重ねだけがそこにあった。
そんな時、偶然入った小さな喫茶店で働き始めることになった。きっかけは些細なものだった。時間を持て余していた俺はフラフラと入った店の張り紙を目にしたのだ。「アルバイト募集中」という言葉が不思議なほど目に留まり、気がつけば応募していた。まさかこの場所で、人生が再び動き出すなんて、その時は思いも寄らなかった。
店の雰囲気も居心地が良かったが、何よりも俺の心を引き付けたのは、店員の一人である彼女だった。名前は佳奈。俺よりも二回りほど若い彼女は、その年齢差を超えた落ち着きを持ちながらも、時折垣間見える無邪気な笑顔が印象的だった。彼女の優しげな声、柔らかく弾むような仕草…。それらが、久しく忘れていた何かを目覚めさせていった。
最初は世間話程度の会話からだった。彼女は控えめだが気さくで、仕事の合間に交わすささやかなやり取りが俺の楽しみになっていった。そして、何度目かの店の裏口での休憩中、彼女がぽつりと漏らした。
「私、こうしている間が一番好きなんです。少し落ち着けるから。」
その言葉と表情に、俺は何故だか胸がきゅっと締め付けられるような感覚を覚えた。理由なんて分からなかった。ただ、その瞬間、過ぎ去った時間の中で忘れてしまった温かさが蘇るのを感じた。
段々と休憩中の二人きりの時間が増えていった。いつの間にか、それが当たり前になり、俺自身もそれを盲目的に求めているのを自覚していた。彼女の小さな仕草や言葉ひとつに心が乱されるような、自分でも制御できない感情。正直、自分が何をしているのか分からなかった。
そんなある休憩時間、彼女は突然こう言った。
「いつも優しくしてくれてありがとうございます。なんだか…私、安心しちゃうんです。」
その言葉に、胸の奥に埋もれていた感情が一気に爆発するような気がした。口元に浮かんだわずかな微笑みと、それ「そんなことを言われると、俺の方が嬉しくて仕方がないよ。」気づけば口をついて出た言葉だった。佳奈の瞳が少し驚いたように揺れるのが分かった。その瞬間、俺たちの間を覆っていた見えない一線が、音もなく崩れ落ちるのを感じた。
彼女が目を伏せ、少しだけ頬を染める。それが妙に色っぽく見えて、俺の胸は高鳴った。この時点で自分に問いかけるべきだったのかもしれない。これから何が起ころうとしているのか、自分は何を望んでいるのかと。しかしその疑問でさえ、湧き上がる熱情の前では消し飛んでしまいそうだった。
「少し外に出ませんか?」佳奈の言葉に、一瞬戸惑うも頷いた。夜の涼しい風が店の裏口から流れ込む。外に出た俺たちはただ並んで立ち、短い沈黙が流れた。だがその静けさにも、妙な心地よさがあった。彼女の存在が近くにあるだけで、満たされるような錯錯覚かもしれない。
しかし、その錯覚に溺れていきたいと願う自分がいるのも、また事実だった。佳奈がふと顔を上げ、俺の方を見つめた。月明かりに照らされた彼女の顔は、驚くほど透き通って見えた。そして次の瞬間、彼女はそっと口を開いた。
「…どうしてでしょうね。あなたといると、なんだかホッとするんです。」
その言葉は、柔らかくも鋭い刃のように俺の胸を突き抜けた。触れてはいけない感情、踏み出してはいけない一歩――それを知りながらも、俺は彼女に惹きつけられていた。距離を縮めたい。その願いを抑え込もうとする理性に逆らうように、俺の体はゆっくりと佳奈の方へ傾いた。彼女もまた、少しだけ首を傾ける。
そして、ほんの一瞬、躊躇があったのかもしれない。だが次の瞬間、俺たちの唇は触れ合っていた。静かな夜風だけが二人を包む中、それは罪だと知りりながらも、その瞬間だけは全てを忘れていた。唇が離れると、佳奈はかすかに目を伏せ、微かな震えと共に「…ごめんなさい」と呟いた。その声には罪悪感が滲んでいる。それなのに、彼女を見つめる俺の心の中では、一切の後悔が湧いてこなかった。
「俺こそ…申し訳ない。けど、もう止められそうにないんだ。」
自分でも信じられないほど率直な言葉が口をついて出た。その言葉に佳奈は驚きつつも、小さな微笑みを浮かべた。どこか諦めとも受け取れるその表情が、俺の胸をもっと深く締め付けた。夜空の下、俺たちは再び距離を詰めた。線を越えたのは確かだったが、今の俺にとって、それが救いのようにさえ思えたのだ。
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