夜の巡回が終わり、マンションの玄関ホールに戻ると、彼女がそこに立っているのが見えた。薄い白のワンピースが夏の夜風に揺れ、その姿はどこか現実離れして見えた。
彼女は、二階に住む桜庭さん。俺の生活にそっと入り込んできた、危険な香りを纏う住人だ。
「夜遅くまでお疲れ様です」
彼女が薄く微笑み、俺に声をかけてきた。その微笑みがどこか意味深に感じられるたびに、自分の中の理性がぐらりと揺れるのを感じる。管理人室に控えめに置かれた時計は午前二時を指していた。普通なら誰も玄関に居るはずがない時間だ。けれど桜庭さんだけは特別だ。彼女には理由はいらない。そこにいるだけで、その場の空気が一変してしまう。自然と俺も、彼女の言葉に引き寄せられるように足を止めた。
「こんな時間にどうされました?お困り事ですか?」極めて管理人らしい態度で返そうとするが、喉に引っかかるような感覚を消し切れない。この静寂の中に浮かぶ、彼女の瞳の奥に隠されたものに気づいてしまっているからだ。好奇心なのか、それとももっと別の何かなのか、俺にはまだ踏み込む勇気はなかった。
「困り事?」彼女は少し笑いながら視線を天井に投げた。「そうね。もし言うとしたら、この時間に誰かと話したかったっていうのが、私の困り事かしら。」
言葉の端々に漂う孤独。それがこの意図しない時間と偶然を作り出したのだろうか。俺は一歩、彼女との距離を詰めた。そしてそれが、どれほど危険な行為なのかを薄々理解しながらも、もう引き返すことはできないこともわかっていた。視線が重なるたび、自分の中の何かが音を立てて崩れていく。
「僕でよければ、話相手になりますよ」
簡単な返事だった。でも、その言葉を口にした瞬間、胸の奥で静かに燻っていた気持ちが一気に燃え上がるような感覚がした。彼女はやはり、深く微笑みを携えて俺を見つめる。その笑顔は、どこか少しだけ寂しげでもあった。そして気づけば、彼女と並んで管理人室に向かっている自分がいた。雨戸を閉じ忘れていた小さな部屋は湿った夜の匂いが残り、明かりを灯したその薄暗さが、隠された秘密を暴き出しそうで嫌でもあった。
「ここ、意外と居心地が良さそうね」
彼女の言葉に、小さく笑うしかできなかった。心のざらつきに触れる彼女の存在が、俺をどうしようもなく動けなくさせる。椅子に腰を下ろした彼女は、少しだけ髪をかき上げて視線を俺に向けた。その仕草があまりに自然で、それでいて計算されたもののように思えて、俺は息を飲む。狭い管理人室での距離感が、普段の巡回中には感じない特別な緊張感を生み出していた。
「こんな時間に迷惑だったかしら?」
彼女の声は柔らかいのに、どこか試すような響きを持っている。その問いに、俺は首を振るしかなかった。
「いえ…むしろ、こんな時間だからこそ、嬉しいくらいです。」
俺の返答に、彼女はまたあの微笑みを浮かべた。その微笑みは、どこか罪深いほど美しくて、俺は視線を逸らしたくなる。けれど、目を離すことができない。彼女の存在自体が、引力のように俺を縛りつけているようだった。
「あなたって…本当に正直ね。」微笑みながら彼女が静かに呟く。その声に、俺の中のどこかがゆっくりと壊れていくような気がした。それが「正直と言えば聞こえはいいですが…」と俺は苦笑いを浮かべながら言った。しかし、その言葉の裏側ではすでに冷静さを失いつつある自分に気づいていた。桜庭さんの視線がまっすぐ俺を射抜く。彼女の瞳の中には得体の知れない力が宿っていて、一度捉えられると、抗おうとしてもその深みに引き込まれてしまう。
「正直な人は嫌いじゃないわ。」彼女の言葉とともに、ふわりと漂う甘い香りが俺の意識を惑わせる。気づけば、わずかに空いていた距離が埋まっていた。彼女の指先が軽く机の上を叩く音が静かな部屋に響く。そしてその仕草一つ一つが、俺の理性を試しているように思えてならなかった。
「でも、それが本当の正直なのか…それとも隠したい何かがあるのか、少しだけ興味があるわ。」彼女の言葉の意図は、まるで探りを入れるかのようだ。俺は覚悟を決めるように小さく息を整俺は視線を落としながら、言葉を探したが何も見つからない。返事をしようとするたび、彼女の瞳が先回りして俺の心の中を覗き込むようで、動揺ばかりが募る。
「隠したいこと、ですか…」
やっとのことで口にしたその言葉は、あまりにも頼りなく響いた。彼女はほんの少しだけ首を傾げ、俺を見上げる。その仕草が、どこか子どものように無邪気でありながらも、そこには抗いがたい大人の色気が混ざり込んでいた。
「ほら、やっぱり。あなた、何か抱えてるでしょ?」
彼女の唇がわずかに開くたび、俺の胸が締めつけられるような感覚に陥る。この狭い部屋の空気が、彼女の言葉に支配されつつあるのを感じる。答えない俺に、彼女はふと近づき、わずかな距離を埋める。その瞬間、彼女の髪から漂う香りが鼻をかすめ、思考がかき乱される。
教えて「教えて」とささやかれたその言葉が、まるで心の奥底にそっと触れるようだった。俺は彼女の瞳をまっすぐ見つめることができず、視線を机の上に落とした。言いたいことも、触れられたくないことも全てが混ざり合い、喉の奥でつかえて動かない。
「隠してるわけじゃないんです。ただ…言葉にするのが難しいだけで。」
俺の声は自分ですら頼りなく感じた。彼女はその言葉に少し微笑むと、唇の端を軽く指でなぞりながら俺を見つめた。そのしぐさが妙に挑発的で、さらに心が乱れる。
「ふふ、そう。それなら、言葉じゃなくてもいいのよ。」
その一言に、彼女の意図がどこまでを指しているのか考える暇すらもなかった。気づけば、彼女との距離は手を伸ばせば届くほどになっていた。彼女の視線には揺るぎがなく、俺を逃がすつもりなどないのがわかる。その吸引力に抗いながらも、俺の中の理性の境界線がぼやけていくのを感じながら、俺は彼女の視線から逃れることができなかった。静寂の中で聞こえるのは、わずかな呼吸音と壁時計の針が刻む音だけ。彼女の唇がゆっくりと動いて、次の言葉を紡ぎ出す前に、俺は無意識に口を開いた。
「…桜庭さん、こんな関係になってしまったら…僕たちは戻れなくなります。」
言葉にした瞬間、それがどれほど愚かなことか自分でわかっていた。けれど、彼女は微笑んだまま、その瞳を外すことなくこう呟いた。
「そうね、戻れなくてもいいわ。だって、それが現実でしょう?」
距離がゼロになるまでの瞬間、俺の心は完全に彼女の手の中であやつられていた。
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