昭和の日本映画界に金字塔を打ち立てた名作『網走番外地』。寡黙でストイックなヒーロー像を確立し、高倉健が一躍日本を代表する大スターとなった伝説のシリーズです。
しかし、この大ヒット作の裏には、売れない下積み時代の苦悩、映画会社との凄まじい対立、極寒の現場で起きた奇跡、そしてヒット曲が抱えた『放送禁止』の謎など、数知れないドラマが隠されていました。今回は『網走番外地』の成り立ちと、高倉健の知られざる真実に迫ります。
1956年に東映からデビューした高倉健。しかし、初期の彼は意外にも、背広を着て笑顔を見せる『明るく真っ直ぐな好青年』やサラリーマン役を演じていました。デビューから5年間で60本以上の映画に出演したものの、当時はヒット作に恵まれませんでした。
当時の東映は京都撮影所で作られる時代劇が主力であり、東京撮影所の現代劇は傍流に過ぎず、高倉健自身もスターとは言えない微妙な立ち位置に焦りを抱いていたといいます。世間のイメージとは異なり、実際の彼は大変話し好きで、出会う人すべてに深々とお辞儀をする、非常に繊細で気配り上手な人物でした。
『網走番外地』の原点は、1956年に伊藤一が自身の網走刑務所での服役体験をもとに著した実録小説です。1959年の日活映画化を経て、1965年に東映で石井輝男監督により企画が進められました。
しかし撮影直前、大きなトラブルが発生します。会社側が他社から移籍させた若い人気歌手を高額ギャラで起用する一方、自身の出演料が低く抑えられていることに腹を立てた高倉健は、会社にギャラ交渉を行います。
交渉が難航すると、彼は話し合いを断ち切り、妻の江利チエミとともにハワイへ渡航してしまったのです。降板や主演交代劇まで取り沙汰される中、最後は大川博社長から『悪いようにはしない』と直接頼み込まれ、高倉健は復帰を果たしました。
復帰した現場を待っていたのは、過酷な冷遇でした。『ラブロマンスがなくヒロインも登場しない映画は当たらない』という理由で、予算は大幅に削られ、カラー予定から『白黒の添え物映画』へと格下げされてしまったのです。あまりの扱いに腹を立てた高倉健は、石井輝男監督の部屋へ直談判に向かいました。
しかし、そこで目にしたのは、割れた窓から雪が吹き込み、布団から出た監督の頭に白い雪が積もっている光景でした。その姿を見た瞬間、高倉健は言葉を失い、何も言わずに部屋を後にしました。後年『あの光景を見ていなければ、今の自分はない』と語るほど、この試練が彼の覚悟を決めたのです。
氷点下30度に達する極寒の北海道士別ロケで、高倉健はお酒を一切飲まないものの、夜はスタッフが温かいホテルで楽しむ姿をニコニコ見守りながらコーヒーを飲み、催眠術をかけて遊ぶような茶目っ気を見せていました。
公開されると、大雪原での脱走や走る列車を使った手錠切断などの体当たりアクションが話題を呼び、添え物扱いを跳ね返す空前の大ヒットを記録しました。高倉健は骨太なヒーローとして一躍トップスターへと駆け上がり、映画は大ヒットシリーズへ成長します。
この大成功を受けて、東映は『不良性感度』をスローガンに掲げ、任侠・アウトロー路線へと全社的に舵を切ることになりました。そして、高倉健が歌う主題歌『網走番外地』も200万枚を超える大ヒットとなりました。原曲は1931年の映画『レヴューの踊子』の楽曲で、刑務所内の受刑者たちの間で替え歌として歌い継がれていたものです。
しかし歌詞に『酒(きす)ひけ』といった香具師や受刑者の隠語が含まれていたことから、テレビやラジオで放送が自主規制される『放送禁止歌(要注意歌謡曲)』となりました。放送で流れないにもかかわらず、曲は人々の心に深く浸透し、昭和を代表する哀愁の名曲として愛され続けたのです。
下積みの焦り、格下げの冷遇、極寒の現場。いくつもの逆境を乗り越えて誕生した『網走番外地』は、高倉健という不世出のスターを生み出し、日本映画史に消えない足跡を残しました。画面越しに漂う静かな情熱と男の哀愁は、時代を超えて今も私たちの胸を打ち続けています。
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