満州事変と聞くと、1931年に日本軍が中国東北部へ進出し、翌年に満州国が建国された出来事、というイメージがあるよね。でも、この歴史には、清朝最後の皇帝だった愛新覚羅溥儀(あいしんかくら・ふぎ)という人物の、なんとも複雑な人生が関係しているんだ。 実は溥儀は、わずか2歳で清朝の皇帝になった人物なんだよ。 1908年、幼くして即位した溥儀は、1912年に清朝が滅亡したことで、皇帝として中国全土を統治する立場を失った。ただし、すぐに宮殿を追われたわけではなく、しばらくは紫禁城で暮らすことができたんだ。 ところが1924年、北京で政変が起きると、溥儀は紫禁城を退去させられてしまう。 皇帝という特別な身分を失い、政治的な居場所もなくした溥儀。そんな彼に接近したのが、日本だったんだ。 当時の日本は、中国東北部に大きな権益を持っていた。鉄道や鉱山などの利権を守ることに加え、満州地域を軍事・経済面で重要な拠点にしようとしていたんだね。 そして1931年9月、満州事変が起こる。 関東軍は南満州鉄道の線路付近で起きた爆破事件を口実に軍事行動を開始した。この事件は、一般に「柳条湖事件」と呼ばれている。爆破の規模は小さく、鉄道の運行にも大きな支障はなかったとされる。それにもかかわらず、関東軍は中国東北部で軍事行動を拡大していったんだ。 翌1932年、日本の強い影響下で満州国が建国され、溥儀は当初、国家元首にあたる「執政」に就任した。そして1934年には皇帝となったんだ。 ここで知っておきたいのは、皇帝になったからといって、溥儀が自由に国を動かせたわけではないということ。 満州国は独立国家の形を取っていたものの、実際には日本の関東軍が政治や軍事に強い影響力を持っていた。溥儀自身も、理想としていた皇帝への復帰を果たしたように見えながら、思いどおりに行動できない立場に置かれていたんだよ。 つまり、溥儀の人生は、皇帝の座を失った人物が再び皇帝になったというだけではない。自分の権威を取り戻そうとした人物と、彼の存在を政治的に利用しようとした国の思惑が重なった歴史でもあるんだね。 さらに、満州国は国際社会でも大きな問題になった。国際連盟は調査団を派遣し、1933年には満州国を日本の傀儡国家とみなす報告などを背景に、日本の行動を批判した。日本はその後、国際連盟から脱退することになる。 そして1945年、...