あら旦那、今夜もようお越しくださいました。ささ、お酒でも召し上がって、ゆっくりしていっておくんなさいな。
ところで旦那、夫婦というものは不思議なものでありんすねぇ。長年一緒に暮らしていると、顔を見ただけで相手の考えていることが分かるようになるんですって。
あちきの知り合いのおかみさんなんぞ、亭主が帰ってくる足音だけで、その日の機嫌が分かるそうですよ。
「今日は機嫌がいいね。足音が軽いから」
「今日は機嫌が悪いね。草履の音が乱暴だから」
なんて具合でね。
ところが先日、その亭主が珍しく静かに帰ってきたんです。
おかみさんが不思議に思って尋ねました。
「お前さん、今日はどうしたんだい?ずいぶん静かじゃないか」
すると亭主、妙に神妙な顔で答えたそうです。
「いや、今日は世の中の真理について考えていたんだ」
あらまあ、普段は晩飯のことしか考えていない男が、急に真理とは大したものでありんす。
おかみさんが聞きました。
「それで、どんな真理が分かったんだい?」
亭主は腕を組んで、しばらく考えたあと、こう言ったそうです。
「人間というものは、食べなければ腹が減る!」
……そりゃあ、真理というより当たり前でありんしょう。
おかみさんは呆れて、「そんなことは子供でも知っているよ」と言ったんですって。
すると亭主は得意げに答えました。
「だから偉いんだ。子供でも知っていることを、俺は大人になってから発見したんだからな!」
まったく、江戸の男というのは、何でも自分の手柄にしたがるものでありんすねぇ。
さて、もうひとつ面白い話がありましてね。
長屋に住む与太郎という男が、最近どうにも物忘れがひどくなったんですよ。
朝起きて、何を食べるつもりだったか忘れる。買い物に出かけて、何を買いに来たか忘れる。家に帰ってきて、なぜ外に出たのか忘れる。
それで女房が心配して、「お前さん、少し頭を使ったほうがいいよ」と言ったそうです。
すると与太郎は、急に立ち上がって言いました。
「そうか!頭を使えばいいんだな!」
そして頭の上に手ぬぐいを乗せて、家の中を歩き回り始めたんですって。
女房が「何をしているんだい?」と尋ねると、
「頭を使っているんだ。手ぬぐいを乗せておけば、頭も働くだろう!」
あらまあ、そりゃあ頭を使うの意味が違いますねぇ。
そのうち、手ぬぐいを乗せたまま外へ出て、近所の子供に笑われたそうですよ。
ところが与太郎は少しも恥ずかしがらず、
「笑うんじゃねえ。これは江戸で流行らせる新しい健康法だ!」
と言い張ったそうでありんす。
いやはや、世の中には物忘れをする人もいれば、忘れたことさえ忘れてしまう人もいるんですねぇ。
あら、旦那。今のお話を聞いて笑っていらっしゃいますけど、旦那も何か忘れておりませんか?
えっ、何も忘れていない?
おやまあ、それは結構。
……ところで旦那、先ほどからお酒を召し上がっていますけど、お勘定のことは覚えていらっしゃいますよね?
あら、急に黙ってしまいましたねぇ。
まさか旦那まで、与太郎みたいに頭を使うのを忘れてしまったんじゃありませんでしょうね。
ふふふ。
江戸の男は、忘れちゃいけないことほど、よく忘れるものでありんす。
でも、お勘定だけは忘れないでおくんなさいよ。
あちきだって、笑ってばかりじゃ暮らしていけませんからねぇ。

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