どこからともなく、拍子木の音が聞こえてきました。
カンカンカン——その音が路地に響いた瞬間、子どもたちは一斉に表へ飛び出していきます。
「紙芝居屋のおじさんが来た」と、誰かが叫ぶ。
昭和の娯楽は、音とともにやってきました。
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| 【昭和の記憶】 |
今、娯楽はすべて手のひらの中にあります。
スマートフォンを開けば、映画も音楽もゲームも漫画も、無限に手に入る。
一人で、自分の部屋で、好きな時間に好きなものを楽しむ。
昭和の娯楽は、まったく逆の方向を向いていました。
娯楽は外にあるものでした。
誰かのところへ行かなければ楽しめない、誰かと一緒でなければ始まらない。
紙芝居は紙芝居屋のおじさんが来なければ見られない。
街頭テレビは電器屋の前まで行かなければ見られない。
貸本屋に行かなければ漫画は読めない。
娯楽を手に入れるために、人は外へ出て、誰かのところへ集まった。
その「集まること」が、昭和の娯楽の本質だったのかもしれません。
今日はその昭和の娯楽の中から、紙芝居、貸本屋、街頭テレビの三つを中心に振り返ります。
いずれも昭和とともに姿を消したものばかりですが、あの頃の路地や街角の空気とともに、記憶している方も多いのではないでしょうか。
まず、紙芝居の話から始めましょう。
紙芝居屋のおじさんは、自転車の荷台に木製の舞台を載せてやってきました。
到着すると拍子木をカンカンと叩いて子どもたちを呼び集め、自転車の荷台に舞台をセットして、絵を差し替えながら物語を語っていく。
演目は勧善懲悪の時代劇や冒険もの、怪奇話などが多く、おじさんの語り口ひとつで子どもたちの表情がくるくると変わりました。
怖い場面では思わず後ずさりし、主人公が窮地に立たされると「頑張れ」と声が上がる。
紙芝居は一方的に見るものではなく、見ている子どもたちが声を上げ、笑い、怯えることで完成するものでした。
紙芝居屋のおじさんは商売人でもありました。
水飴、ソースせんべい、砂糖菓子——紙芝居の前に駄菓子を売るのが、おじさんの収入源です。
何か買った子どもは前の方に立てて、何も買わない子どもは後ろに下がらなければならない、という暗黙のルールがありました。
持ち合わせのない日は、後ろの方からつま先立ちで覗き込む。
それでもおじさんは追い払いはしない。
「来週までに続きを考えておけよ」と言い残して、自転車で去っていく。
紙芝居の続きが気になって、一週間を過ごす。
次の週、またカンカンという音が聞こえてきたときの高揚感。
その繰り返しの中に、昭和の子どもたちの時間がありました。
紙芝居屋が街から姿を消したのは、テレビの普及によるものです。
昭和30年代にテレビが家庭に入り込むにつれて、路地に集まる子どもたちの姿は減っていきました。
紙芝居屋のおじさんにとっても、テレビは手強い競合相手でした。
それでも昭和40年代の初めまで、地方では紙芝居屋の姿を見ることができたといいます。
次に、貸本屋の話をしましょう。
今の子どもたちには馴染みのない言葉かもしれませんが、昭和の街には貸本屋がありました。
漫画や小説を一冊数円から十円程度で貸し出す小さな店で、昭和20年代から30年代にかけて全国の街角に存在していました。
当時、漫画の単行本は子どもにとって高価なものでした。
気軽に買える値段ではないから、貸本屋で借りて読む。
今でいうマンガ喫茶の原型のようなものですが、貸本屋はもっと小さく、もっと雑然としていました。
店の中は薄暗く、床から天井まで本棚が並んでいて、通路がかろうじて人一人通れるくらいの幅しかない。
その薄暗い店の中に、子どもたちが押し込まれるようにして本を選んでいた。
手塚治虫の「鉄腕アトム」、白土三平の「カムイ伝」、貸本専用に描かれた劇画——昭和の貸本屋を舞台に、後の漫画文化の礎が作られていきました。
貸本屋は単に本を貸す場所ではなく、漫画という文化が育った土壌でもあったのです。
貸本屋のおじさん、おばさんも、子どもたちの顔と好みを覚えていました。
「お前、先週借りたやつ返したか」と声をかけ、「次はこれが面白いぞ」と新しい本を勧めてくれる。
本を介した人間関係が、あの薄暗い店の中にありました。
貸本屋が姿を消したのも、やはり昭和40年代から50年代にかけてのことです。
漫画雑誌の普及と、本の値段が下がったことで、貸本という形式が成り立たなくなっていきました。
今では貸本屋という商売を知らない世代の方が多くなりましたが、あの薄暗い店の匂いと、棚から本を選ぶときのわくわく感を覚えている方には、懐かしい記憶のひとつではないでしょうか。
そして、昭和の娯楽を語るうえで絶対に外せないのが、街頭テレビです。
街頭テレビとは、電器屋や商店の店先に置かれたテレビのことです。
テレビがまだ一般家庭に普及していなかった昭和20年代後半から30年代にかけて、街角に置かれたテレビの前に人々が集まり、肩を寄せ合って画面を眺めていました。
街頭テレビが最初に人々を熱狂させたのは、プロレスの中継でした。
1954年(昭和29年)、力道山対シャープ兄弟の試合がテレビ中継されたとき、電器屋の前に数千人もの人が集まったといいます。
力道山が空手チョップを繰り出すたびに、群衆が雄叫びを上げ、拳を突き上げた。
戦争に負けて、占領期を経て、まだ自信を取り戻せていなかった日本人が、力道山の活躍に熱狂した。
あの街頭テレビの前の群衆の熱気は、単なるプロレス観戦ではなく、昭和という時代の空気そのものでした。
街頭テレビの前に集まるのはプロレスだけではありませんでした。
大相撲の中継、プロ野球の日本シリーズ、そして1964年の東京オリンピック。
特に東京オリンピックのときは、街頭テレビの前が人で埋め尽くされ、マラソンの円谷幸吉が走るたびに沿道から声援が上がり、テレビの前でも人々が声を上げていたといいます。
街頭テレビが象徴するのは、人々が同じものを同じ場所で共有していた時代です。
今はそれぞれの画面でそれぞれのコンテンツを見る時代ですが、街頭テレビの前には、知らない人同士が肩を並べて同じ画面を見つめ、同じところで声を上げていた。
その一体感は、今の時代には再現できないものです。
テレビが家庭に普及するにつれて、街頭テレビの前に集まる人の数は減っていきました。
昭和40年代に入るとほとんど見られなくなり、やがて街頭テレビそのものが街から消えていきました。
紙芝居、貸本屋、街頭テレビ——三つの娯楽に共通するのは、人が集まることで成立していたということです。
一人では楽しめない。
誰かと一緒でなければ始まらない。
知らない人同士が同じ場所に集まって、同じものに笑い、同じものに熱狂する。
その「集まること」の中に、昭和の人々のつながりがありました。
娯楽が人と人をつないでいた時代といえるかもしれません。
便利になった今の時代に、あえてあの頃の娯楽を懐かしむとすれば、それはきっと、あの頃の「誰かと一緒にいる感覚」への郷愁なのではないでしょうか。
昭和の娯楽で、一番印象に残っているものは何ですか。
「紙芝居屋のおじさんが来るのを毎週楽しみにしていた」
「貸本屋で漫画を選ぶ時間が好きだった」
「街頭テレビの前で力道山を見た記憶がある」
どんな小さな記憶でも、ぜひコメントで教えてください。
あの頃の路地や街角の空気を、一緒に振り返りましょう。
次回の【昭和の記憶】シリーズは、「昭和の近所づきあい——お裾分け・回覧板・鍵のかからなかった時代のはなし」をお届けします。
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また次の動画でお会いしましょう。
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