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【昭和の記憶】昭和の商店街——八百屋・魚屋・電気屋が並んでいた時代のはなし



アーケードの屋根の下に、威勢のいい声が響いていました。 「いらっしゃい、いらっしゃい、今日のトマトは甘いよ」 魚屋からは氷と磯の匂いが漂ってきて、肉屋のショーケースにはコロッケが並んでいる。

昭和の商店街は、五感で感じる場所でした。


昭和の商店街
昭和の商店街


今、買い物はスーパーマーケットかネットショッピングが中心です。 必要なものを効率よく手に入れて、さっさと帰る。 店員と言葉を交わすことも、ほとんどありません。

昭和の商店街は、まったく別の場所でした。

商店街とは、個人商店がアーケードの下に軒を連ねた買い物の場所です。 八百屋、魚屋、肉屋、豆腐屋、米屋、乾物屋、電気屋、洋品店、床屋、薬屋——それぞれの専門店が並んで、地域の人々の日常を支えていました。

買い物をするとは、商店街を歩くことでした。 今日の夕食の献立を考えながら、八百屋で野菜を見て、魚屋で今日の目玉を聞いて、肉屋でおまけを交渉する。 一軒一軒を回ることが、そのまま地域の人との交流になっていた。

商店街の全盛期は昭和40年代から50年代にかけてのことです。 その後、大型スーパーの郊外出店、コンビニエンスストアの普及、そしてネットショッピングの台頭によって、昭和の商店街は急速に姿を変えていきました。 シャッターが閉まったままの店が増え、かつての賑わいは記憶の中へと消えていった。

今日はその昭和の商店街を、八百屋、魚屋、電気屋を中心に振り返っていきます。


昭和の商店街
昭和の商店街


昭和の商店街といえば、まず八百屋の声です。

「いらっしゃい、いらっしゃい」と威勢よく呼び込む声が、商店街のアーケードに響き渡る。 店先には旬の野菜と果物が所狭しと並んでいて、値段は手書きの紙に書かれてさしてある。

八百屋のおじさんは、顔なじみのお客さんには特別な対応をしてくれました。 「今日は特別においしいのが入ったから、これにしなよ」とこっそり耳打ちしてくれる。 「いつものでいい?」と聞かれて、常連であることの居心地よさを感じる。

値段の交渉も、昭和の八百屋では珍しくありませんでした。 「これ、もう少し安くならない?」と聞けば、「しょうがないなあ」と言いながらおまけをつけてくれるおじさんがいた。 値段が固定されていて交渉の余地がない今のスーパーとは、まるで違う買い物の文化です。

夕方になると、残り物の野菜を安くまとめ売りする時間がありました。 「夕方の値引き」を狙って、夕食前に商店街を訪れるお母さんたちの姿が、昭和の商店街の夕方の定番風景でした。

八百屋では季節の移り変わりを体で感じることができました。 春になればタケノコとふきのとうが並び、夏にはスイカとトマトが積み上がり、秋には松茸と栗が店先を飾る。 旬のものを旬のうちに買う、という当たり前の買い物が、八百屋という場所で自然に行われていました。



次に、魚屋の話をしましょう。

昭和の商店街の魚屋は、今のスーパーの鮮魚コーナーとは別物でした。 氷を敷き詰めたショーケースの上に、まるごとの魚がずらりと並んでいる。 目が澄んでいるか、えらが赤いか——鮮度を見極めながら買う、本物の鮮魚店です。

魚屋のおばさんは、その道のプロでした。 「今日は何にしますか」と聞かれて「何がおいしい?」と返せば、その日の一番のものを教えてくれる。 「アジが朝一番に入ったばかりで、今日は格別においしいですよ」という言葉を信じて買う。 その信頼関係が、魚屋と客の間にありました。

三枚におろしてもらう、刺身にしてもらう——下処理を店でやってもらえるのも、魚屋ならではでした。 出刃包丁を手際よく動かして、あっという間に魚をさばいてくれるおじさんの技術に、子どもたちは目を丸くしていました。

魚屋には独特の匂いがありました。 磯の匂いと、氷の冷たい匂いと、血の匂いが混ざった、生の魚の匂い。 好きな人には懐かしく、苦手な人には思い出したくない匂いかもしれません。 でもあの匂いが漂ってくると、昭和の商店街の記憶が一気に蘇る——そういう方も多いのではないでしょうか。

魚屋は昭和の食卓と直結していました。 日本人が毎日魚を食べていた時代、魚屋は八百屋と並んで、家庭の食を支える最も重要な店のひとつでした。



商店街には魚屋と八百屋のほかにも、個性的な専門店が並んでいました。

肉屋のショーケースには、コロッケとメンチカツと串カツが並んでいました。 揚げたてのコロッケを一個買って、紙袋に入れてもらって、歩きながら食べる。 それが商店街での子どもたちの楽しみのひとつでした。 肉屋のおじさんは気前がよくて、子どもが来るとおまけに一切れつけてくれることもあった。

豆腐屋は、早朝から営業していました。 朝5時、6時には豆腐を作り始めて、できたての豆腐を売る。 ラッパを吹きながら自転車で巡回する豆腐屋もいて、その音が聞こえると鍋を持って飛び出していく。 できたての豆腐を鍋に入れてもらって、そのまま冷奴や味噌汁に使う。 スーパーでパック入りの豆腐を買う今とは、豆腐の新鮮さがまるで違いました。

米屋も昭和の商店街の重要な存在でした。 精米したてのお米を量り売りしてくれる店で、大きな米びつから必要な量だけ買う。 米屋のご主人は米の銘柄と産地に詳しく、「今年の新潟のコシヒカリは格別だ」などと教えてくれる。 米の目利きとしての誇りを持った、職人気質の商売人でした。



昭和の商店街の中で、少し毛色が違ったのが電気屋です。

今の家電量販店とは似て非なる存在で、昭和の街の電気屋は地域密着の小さな個人商店でした。 テレビ、洗濯機、冷蔵庫、ラジオ——家電製品を売るだけでなく、修理も引き受けるのが昭和の電気屋でした。

「テレビの映りが悪くなった」と持ち込めば、ご主人がテレビの裏蓋を開けて、真空管を取り換えて直してくれる。 「ラジオが突然鳴らなくなった」と言えば、部品を調べて修理してくれる。 壊れたら捨てるのではなく、修理して使い続けるのが昭和の当たり前でした。

電気屋のご主人は、顔なじみのお客さんの家の家電の状態を把握していました。 「そろそろあのテレビは買い替えた方がいいですよ」と先回りしてアドバイスをくれる。 高い買い物だからこそ、信頼できる人から買いたい——その信頼を、地域の電気屋は長年の付き合いで積み上げていました。

家電が故障したときに電話一本で駆けつけてくれる、アフターサービスも電気屋の仕事でした。 真夏にクーラーが突然止まったとき、真冬に暖房が壊れたとき——「ちょっと見てきます」と言って、夜でも来てくれるご主人がいた。 大型量販店では絶対に受けられないサービスが、昭和の街の電気屋にはありました。


昭和の商店街
昭和の商店街


昭和の商店街が賑わいを失っていったのは、いくつかの理由が重なっています。

最も大きな理由は、大型スーパーの登場です。 昭和50年代から60年代にかけて、郊外に大きな駐車場を持つスーパーマーケットが次々と出店しました。 一か所で何でも揃う、値段が安い、車で行ける——その便利さに、商店街の客足は徐々に奪われていきました。

冷蔵庫の普及も、商店街の衰退に影響しました。 毎日新鮮なものを買いに行く必要がなくなり、週に一度まとめ買いをするスタイルに変わっていく。 毎日顔を合わせることで成り立っていた商店街の人間関係は、まとめ買いの生活の中では維持しにくくなりました。

商店主の高齢化と後継者不足も深刻でした。 親の代から続く店を引き継ぐ子どもが減り、店主が高齢になって体が続かなくなるとシャッターが下りる。 一軒閉まると隣も閉まり、人が来なくなるとまた閉まる——その悪循環が、全国の商店街で起きていきました。

でも商店街が持っていた本当の価値は、商品の安さや品揃えではありませんでした。 店主と客の顔の見えるつながり、毎日の買い物の中で交わされる会話、地域の人が自然に集まる場所としての機能——それは今のショッピングモールには再現できない何かです。



昭和の商店街で、一番思い出に残っているお店や出来事を教えてください。

「八百屋のおじさんにいつもおまけをもらった」 「魚屋でさばいてもらうのを見るのが好きだった」 「電気屋のご主人が夜中に修理に来てくれた」

どんな小さな記憶でも、ぜひコメントで教えてください。 あの頃の商店街の賑わいと温かさを、一緒に振り返りましょう。

次回の【昭和の記憶】シリーズは、「昭和の結婚式——仲人・花嫁行列・披露宴で歌った時代のはなし」をお届けします。 チャンネル登録をして、次の動画をお待ちください。 また次の動画でお会いしましょう。


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