はじめまして。
私は美咲、三十五歳。夫の実家で義父と三人暮らしです。
義父は八十七歳。要介護4。もう三年近く、ほとんど寝たきりで、認知症もかなり進んでいます。
最初に異変を感じたのは、去年の十一月でした。
夜中の二時過ぎ、義父の部屋から小さな声が聞こえてきて。
「……もう隠さなくていい、知ってるよ」
私はてっきり寝言だと思い、様子を見に行きました。
義父は目を閉じたまま、でもはっきりと、私の名前を続けて言ったんです。
「美咲……もう隠さなくていい。知ってるよ……健太くんのこと」
……健太くん。
それは、私が絶対にこの家で口にしてはいけない名前でした。
二年付き合ってる不倫相手の名前です。夫にも義父にも、誰にも言っていない。
LINEも全部消してるし、会うときはいつも遠くのラブホ。
なのに、義父は寝たきりのまま、薄く笑って繰り返したんです。
「健太くん、優しいね。美咲のこと、本気だって言ってたよ」
その夜は震えながら自分の部屋に戻りました。
幻聴だ、認知症の妄想だ、と自分に言い聞かせて。
でも、次の日も、その次の日も、毎晩同じ時間に。
「健太くん、昨日も遅くまで一緒にいたね」
「健太くん、美咲のこと抱くとき、いつもどこ触るの?」
「健太くん、奥さんにはまだ言ってないんだろ?」
全部、全部当たってるんです。
私が健太と会った日、時間、場所、会話まで。
義父は一日中ベッドに横たわってるだけなのに、どうして?
一週間後、とうとう我慢できなくなって、夜中に義父の部屋に駆け込みました。
「義父さん! どうして知ってるんですか!? 誰かに聞いたんですか!?」
すると義父は、初めて目を開けて、私をまっすぐ見て。
そして、にこっと笑って言ったんです。
「美咲……お前が寝てる間に、健太くんに会いに行ってるんだよ」
「俺の体は動かないけど、魂だけは自由だからね」
「昨日も見たよ。お前が健太くんの車の中で泣いてたろ?」
「『夫と別れたい』って言ってたよね」
……その日は、本当に健太の車の中で、私はそう泣いていました。
誰にも見られてないはずの場所で。
それから私は、もう義父の部屋に近づけなくなりました。
でも、義父は毎晩、私の寝室のドアの前で車椅子を止めて、小さな声で囁くんです。
「美咲……もう隠さなくていいよ」
「健太くん、今夜も待ってるってさ」
「俺が連れてってあげようか?」
今夜も、また二時になりました。
廊下に、車椅子の軋む音が近づいてきてます。
義父はもう寝たきりじゃなくなりました。
自分で車椅子を漕いで、私の部屋の前まで来るんです。
……もう、隠せない。
全部、知られてる。
義父は全部、見てる。
ねえ……あなたも、今、私のこと見てる?
義父さん……それとも、健太くん……?
どっちが、そこにいるの……?
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