土砂降りの雨が夜空を切り裂き、侍の影を闇へと溶け込ませる。武士・五郎左衛門(ごろざえもん)は、己の運命を嘆くように刀を握りしめ、雨の音に耳を傾けていた。
「...五郎、まだこの道を歩むのか? そんな金が欲しいか?」
幼なじみの清之介が傍らで問いかける。清之介は五郎の秘密を知りつつも、心の奥底で友を救いたいと願っているのだ。しかし、五郎は目を逸らしながらも低い声で言った。
「清之介、俺にゃ他に選べる道がねぇんだ。侍とは言え、借金まみれで背中を押されるのが現実よ。」
彼の手には二振りの刀。一本は主家の忠義を守るため、もう一本は借金を返済するために握る刀。彼が「助太刀」を引き受ける理由には、親兄弟を守るための借金があるのだ。仇討ちを望む者たちに雇われ、依頼を受けるたび、己が武士としての誇りが薄れていくのを感じていた。
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その夜もまた、仕事の依頼が届いた。頼み主は、財を成した商人の娘。彼女は涙をこぼしながら言う。
「どうか…どうか父の仇を討ってほしいのです。貴方は、その…報酬のために動くのではなく、心から助太刀をする方と聞きました。」
「報酬のために動く…それが本音さ、勘違いはするな。」
そう言いながらも、五郎は商人の娘の真摯な目を見て、心の奥に小さな罪悪感が芽生えた。彼の役目はただ仇を討つことであり、そこに情けを挟む余地などなかったのだ。しかし、今夜はどこか違う感情が彼を突き動かした。
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雨音が止み、月がわずかに顔を覗かせる頃、五郎は指定された場所に足を運んだ。敵の武士が待ち受けているはずの山道を一歩ずつ進む中、心の中では葛藤が渦巻いていた。
「この道を進んで何になる? 本当にこれで、家族を守れるのか…」
ふと、目の前に男が現れた。その男は長い刀を抜き、五郎をじっと見据えていた。互いに無言のまま、鋭い目線を交わす。
「お前が…依頼人の言っていた侍か?」
「そうだ。あんたの命をもらいに来た。」
静かな声で言い放つが、心の中では何かが騒いでいた。己の刃が相手の命を奪うことでしか成り立たない生活。それが本当に侍としての誇りなのかと、五郎は問い続けていた。
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激しい斬り合いが始まった。互いの刃が火花を散らし、夜の闇に鋭く音を立てる。一瞬の隙をつき、五郎の刀が相手の胸元を捉えた。
「…ふ、不覚を…」
男は崩れ落ち、息絶えた。五郎は血の匂いに顔を背け、夜風に刀を振って血を払い落としたが、心の中ではむなしさが募るばかりだった。
「こんな生き方、いつまで続けるつもりだ、俺は…」
その時、背後から足音が近づいてくる。振り返ると、清之介が一人、闇の中に立っていた。彼は無言で五郎を見つめ、ついに声を絞り出す。
「これで本当にお前は満足なのか? 金のために生き、そして金のために人を斬る侍の姿が、お前の望むものなのか?」
五郎は答えられず、ただ雨のように滴る血を見つめた。
「…俺にだって、誇りは残ってるさ。でもな、清之介、俺の誇りだけで家族は守れないんだ。」
その場に立ち尽くし、五郎は空を見上げる。雨上がりの夜空に、曇りがちな月がぼんやりと浮かんでいた。その月光に照らされ、彼は決心したように、もう一度刀を握り直す。
「清之介、俺は…」
そこにいた清之介は、もういなかった。
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五郎の言葉を最後まで聞くことなく、清之介は既に姿を消していた。その足跡すら残さず、夜の闇に溶け込んでいた。まるで彼の言葉が五郎の心に迷いを残すだけの幻であったかのように。
「…清之介…」
ぽつりと名前を呼び、五郎は再びその場に立ち尽くす。冷たい夜風が肌を刺し、血のにおいがわずかに風に乗って漂ってくる。この仇討ちの仕事に対する割り切れない気持ちが、再び五郎の胸に押し寄せてきた。
「誇りなんてもの、今さら気にすることじゃねえ…」
そう自分に言い聞かせてはみたものの、清之介の残した言葉が頭から離れなかった。幼いころ、武士としての誇りを抱いていた頃の自分が浮かんでくる。あの頃の五郎は、仲間と共に未来を語り合い、命を懸けることに意味を見出していた。けれど、時は経ち、現実は彼を借金の重みへと引きずり込んだ。
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数日後、五郎は再び新たな依頼を受けた。今度の依頼人は農家の青年で、かつて兄を失った復讐のために仇を討ちたいと願っていた。彼の話を聞く間、五郎は不思議な感覚を覚えていた。無念に震える青年の拳が、かつての自分と重なって見えたのだ。
「頼む、あんたの剣で、兄の無念を晴らしてくれ…」
青年は深々と頭を下げ、涙をこぼしていた。五郎はふと自分の刀に視線を落とし、答えた。
「そのために俺がいる。だが…仇を討ったところで、心が晴れるかどうかはわからんぞ。」
青年は顔を上げ、驚いたように五郎を見つめた。その目には絶望とともに、かすかな希望が残っている。
「それでも、俺は兄のために…」
五郎は、青年の言葉を聞きながら、自分の胸にある鈍い痛みを感じていた。果たして、自分が人の無念を晴らすために剣を振るう資格があるのかと疑問が湧いてきた。だが、もはや引き返す道はない。心に残る罪悪感や誇りの欠片を押し殺しながら、五郎は青年の依頼を引き受けた。
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その夜、再び五郎は指定された山道に立っていた。雨が降り始め、森の中を湿らせている。敵が潜んでいる気配を察し、刀を抜きながら彼は深く息を吸い込んだ。そこに、静かに言葉が浮かんでくる。
「お前のような侍が、この世に何の意味を持つ?」
清之介の幻のような問いかけが、再び五郎の耳に響いた。過去の自分との会話のように、彼は内なる声と対峙していた。
「俺は…ただ金のために動く侍だ。誇りなんてものはとっくに捨てた…はずだった。」
そうつぶやくと、草むらから一人の武士が現れた。彼は五郎を見据え、刀を構えたまま一歩踏み出す。
「貴様が…仇討ちを生業にする借金侍か。」
五郎は無言で刀を振りかざし、ただ前へと進んだ。戦いが始まると、互いの刃が幾度も交わり、夜の闇を切り裂いていく。激しい斬り合いの最中、五郎はふと相手の目に一瞬の迷いを見つけた。その迷いが命取りとなり、五郎の刃が相手の胴を貫いた。
倒れゆく相手を見下ろしながら、五郎の胸は重くなっていく。勝利したはずの瞬間にも、心は晴れない。
「これでいいのか、俺は…」
その問いが、彼の心に深く刻まれた。
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夜明けが近づくと、五郎は依頼人の青年に報告を済ませ、再び一人で歩き出した。借金を返すために受ける仇討ちの仕事。今後も続けることになるのか、五郎はわからなかった。
夜風に身を晒しながら、彼は最後に一言つぶやいた。
「清之介、俺に誇りが戻る日は…来るんだろうか?」
それでも足は止めず、彼は夜道を静かに歩き続けた。
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その後も、五郎は仇討ちの依頼を淡々とこなす日々が続いた。しかし、清之介の言葉が心に刺さったまま抜けず、仕事を終えるたびに感じる空虚さは深まるばかりだった。
そんなある日、五郎のもとに思いがけない依頼が舞い込んだ。依頼人は年老いた侍の妻で、仇討ちの相手は、なんと五郎のかつての主君であった。五郎が借金を抱える原因を作った、冷酷な主君だ。
「…あの者を、討っていただきたいのです。私の夫は、主君の手によって無念の死を遂げました。」
老婆の震える声に、五郎は内心驚きを隠せなかった。しかし、依頼を断る理由も見つけられず、彼は承諾した。
「…分かりました。仇討ちのお代は、以前と同じで構いませんか?」
「はい…しかし、私はこれ以上の金を用意することができません。それでも、あの人の無念を晴らすため、どうか助太刀をお願い致します。」
老婆の悲痛な表情に胸が痛む。かつて忠義を尽くした主君を討つことが、果たして正しいのかどうか。五郎は心の中で葛藤しながらも、自分の命を懸ける覚悟を決め、夜の闇に身を溶かして進んだ。
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夜の静寂が漂う城下町。五郎はそっと屋敷に忍び込み、主君の寝所にたどり着いた。だが、彼が刀を抜きかけたその時、主君がふと目を開け、暗闇の中で五郎の姿を見つけた。
「…五郎、まさかお前が…」
五郎は無言で主君を見据え、刀を構えた。主君は動じることなく、ただ五郎に語りかける。
「忠義を尽くしたはずのお前が、こうして私を討とうとするとはな…」
五郎は唇を噛みしめながらも答えた。
「忠義を尽くしてきたと思っておりました。だが、あなたは多くの人の生活を犠牲にし、冷酷に扱いました。その結果、私は家族を守るために借金に縛られ、命を売る道を歩むしかなかった…」
主君は少しの沈黙の後、ゆっくりと起き上がり、五郎に言った。
「ならば、私を討て。それが貴様の生き方の道理であればな…」
五郎の心が揺れ動く。自らの復讐心と、かつての忠誠が入り交じり、刀を振り下ろす決断ができない。彼は震える手をじっと見つめ、刀をゆっくりと下ろした。
「…俺には、できません。」
そうつぶやくと、主君は静かにうなずき、目を閉じた。
「五郎、お前はまだ、人としての誇りを失ってはいないのだな…」
その言葉に、五郎の胸が熱くなる。ずっと金のために動く「借金侍」として生きてきたが、最後に残ったのは、かつて誓った誇りだった。
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夜が明ける頃、五郎は屋敷を後にした。仇討ちの依頼は果たせなかったが、彼の心には一つの決意が生まれていた。
「もう、仇討ちの助太刀で金を稼ぐ道は終わりにしよう…」
その日から五郎は、真に人を助けるための道を模索することにした。金に囚われず、自らの誇りを取り戻すための新たな生き方を見つけようと、五郎は再び刀を握り直し、静かに歩き出したのだった。
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