夜が深く、しんと冷える空気が町を包んでいた。月明かりが細く差し込み、道端の瓦に静かな光を落とす。そんな中、音も立てずに男がひとり、町の闇に消えていった。
「おい、弥助、お前も感じてるんだろう?」
低い声で呼びかけたのは、同じく影のように歩く壮年の男、源蔵だ。弥助は足を止め、振り返らずに答えた。
「あぁ、源さん……俺たちのしてることが、本当に正義なのか、ってか?」
「正義なんざ、誰かに決められるもんじゃねぇ。俺たちは、自分の目で見て、耳で聞いて……そして、裁くんだ」
源蔵は肩越しに、弥助の横顔を伺った。弥助は、まだ若いが、すでに数多の悪党の命を闇に葬ってきた仕事人だった。しかし、どこかで心に重りを感じているように見えた。
「けど、源さん。あの女房が泣き崩れる姿……俺たちに裁かれたあいつにも、家族がいたんだ」
「家族ってもんは、そう簡単に割り切れるもんじゃねぇ。でもな、弥助。あいつは人の人生を台無しにしてきた。そいつの涙の裏に、どれだけの無念が隠されてたか、考えてみろ」
弥助は少し目を伏せた。彼の頭の中に、これまで葬ってきた男たちの顔が浮かんでは消える。彼らも、少なからず何かのために生きていたはずだ。だが、自分が選んだ道は、正義と信じてきた道は、そうした彼らの命を奪う仕事なのだ。
源蔵はそんな弥助の肩に手を置き、ふっと笑った。
「お前はやさしいな、弥助。それだからこそ、俺たちにはお前が必要なんだ」
ふたりは、また歩き出した。風が吹き、どこからか鈴虫の音が夜の帳をかすめる。彼らが向かうのは、町はずれの小さな茶屋だった。そこには、次の標的がいると聞いていた。
***
茶屋の明かりが漏れ、静かに燃える篝火が彼らの顔を赤く染めた。そこには、着物の襟を大きくはだけた男が、酒に酔いしれていた。かつては浪人だったが、今では町を牛耳る悪党となり果て、弱者を食い物にしていると評判だった。
「……いよいよか、源さん」
弥助がつぶやくと、源蔵は静かにうなずいた。二人は近づき、男の前に姿を現した。
「なんだお前ら、こんな夜中に何の用だ?」と、男は酒に酔った目で二人を見たが、すぐに何かを感じ取ったように顔を引き締めた。
「用ってのは、決まってるさ。あんたが今までしてきたことの始末をつけに来た」
源蔵の言葉に、男は不敵に笑った。
「はっ、偉そうに説教たれやがって……俺がどんな道を歩こうが、俺の勝手だろうが!」
「その勝手で踏みにじられた人間たちが、どれだけ苦しんできたか……それを見過ごすわけにはいかねぇ」
源蔵の声は静かだが、強い意志が込められていた。弥助もその横で黙ってうなずく。彼の瞳には、どこか憂いが漂っていたが、迷いはなかった。
男は刃を抜き、二人に向かって構えたが、その動きはすでにふたりの目には遅すぎた。弥助が素早く間合いを詰め、男の腕を封じた。次の瞬間、源蔵が一閃し、男はその場に崩れ落ちた。
***
夜が再び静寂に包まれた。月が雲の間から姿を見せ、二人の顔を照らしていた。弥助は、手に残る感触をじっと見つめた後、源蔵に視線を向けた。
「源さん、これで本当に良かったのか……俺にはまだ、割り切れねぇ」
源蔵は静かに、そして深い思いを込めて答えた。
「弥助、俺たちの仕事は、誰かが喜んでくれるもんじゃねぇ。だが、犠牲を出し続けるわけにはいかねぇ。お前も、いつかきっと分かるさ」
「……そうだな。いつか、俺にも答えが見つかるのかもしれない」
ふたりは無言でその場を離れ、再び闇の中に姿を消した。その後には、誰もいない茶屋だけが残り、風が吹き抜ける音だけが響いていた。
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