「父さん、私が行けばいいんでしょ。もうどうにもならないもの…」
父のしわだらけの顔が、疲れ切ったように俯いている。春の初めに凶作だと分かった時点で、こうなるのは目に見えていた。村中が年貢を納められず、毎夜どこからともなく啜り泣きが聞こえてくる。私は、農家の娘である以上、この運命を拒む権利なんてないと思っていた。
村外れに住む庄屋が「代官様の元で奉公に出る者を募る」と言い出したのは昨日のことだ。奉公と言えば聞こえはいいが、実際は村の娘を見世物や男たちの慰みに売り飛ばすことは誰もが知っている。それでも家族が生き延びるためには、誰かが差し出されるほかなかった。
私は震える手で髪を結い直し、母の古びた着物を身につけた。
「ユリ、許してくれ、こんなことをさせてしまうなんて…」
父の声がどこか遠く聞こえる。胸の奥が軋むような痛みを覚えたけれど、涙は出なかった。ただひたすら、早くこの恐怖から解放されたいと思った。
代官の屋敷へ向かう道すがら、庄屋の手下が私を引っ張りながら歩く。山道には桜の花びらが舞っていた。そんな美しい景色を前にしても、足元に縛られた縄の感触が消えることはない。
「お嬢さん、怖がらなくていいんだぞ。代官様は優しいお方だ」
手下がそう言ったが、その薄笑いが腹立たしかった。
屋敷に着くと、代官が待ち構えていた。小太りの体に豪華な絹の衣をまとい、私を見る目が気味悪かった。
「なかなかの器量じゃないか。これなら良い値がつくだろう」
彼が品定めするように私を見た瞬間、何かが私の中で壊れた。
「嫌です…嫌だ!」
力を振り絞って叫ぶと、庄屋の手下が私を押さえつけた。体が震えて、呼吸が乱れる。
その時だった。
「おい、てめぇら、その手を離せ」
低い声が響き、辺りが静まり返った。ふと見ると、一人の男が刀を携えて立っていた。着物はくたびれているが、その鋭い目が全てを見透かすようだった。
「何者だ!」と代官が怒鳴ると、その男は刀を鞘から少し抜き、代官に冷たく言い放った。
「借金まみれの侍だがな、こういう悪行を見るのは我慢ならねぇ。娘を放せ」
手下たちが男に襲いかかるが、一瞬で倒された。その様子に代官は青ざめ、私の前に跪くようにして命乞いを始めた。
「わ、分かった、娘は返す!命だけは助けてくれ!」
私は恐る恐る侍の方を見た。彼の鋭い目が私に向けられた瞬間、思わず声を漏らしてしまった。
「…どうして助けてくれるんですか?」
侍は少し驚いたような顔をして、それから静かに笑った。
「お前のような娘が犠牲になる世の中が、間違ってるだけだ」
その言葉に、胸の奥が温かくなるのを感じた。
侍は代官を屋敷に閉じ込め、私を家まで送り届けてくれた。村の人々は彼の勇気に感謝し、代官の悪行を藩に訴える準備を始めた。
それから侍は、ふらりとどこかへ去っていった。
私は今でも、彼の背中を忘れられない。桜の舞う道を、堂々と歩く姿が目に焼き付いている。
「またいつか、あの方に会えたら…」
そう呟きながら、私は新しい日々を生き始めた。
数日後、侍が村に戻ってきたという噂が広まった。どうやら代官の屋敷を出てからも村周辺を回っていたらしい。村人たちが畏敬の眼差しで彼を見守る中、私は気持ちを抑えきれず、彼の泊まるという山小屋へ向かった。
小屋の中は質素なもので、焚き火の煙が天井に漂っていた。侍は無造作に腰を下ろし、刀をそばに置いていた。私が戸口で声をかけると、彼は振り返り、少し驚いた表情を見せた。
「お嬢さん、どうした?」
その問いに、私は思わず足を進めた。
「どうしてもお礼が言いたくて…それに…その、少しお話したかったんです。」
彼は肩をすくめ、火のそばを指さした。
「そんなにかしこまることじゃねぇ。ここに座れ。」
私は火のそばに座り込むと、手を膝の上でぎゅっと握った。胸の中で言いたいことが渦巻いていたけれど、どう切り出せばいいのか分からない。
「……本当に、ありがとうございました。私、あのままだったら…」
声が震え、涙がぽろりとこぼれた。侍は黙って焚き火を見つめながら、静かに言葉を紡いだ。
「礼ならいらねぇ。俺はただ、目の前の間違いを正しただけだ。それに…」
彼は少し言葉を切って、私に視線を向けた。
「お前が勇気を出して、嫌だって叫んだからだ。」
その言葉に、胸がじんと熱くなった。私が声を上げたことが、彼の心に届いたのだと思うと、不思議な力が湧いてくる気がした。
「でも、あの時は怖くてたまらなかったんです。本当は、逃げ出したいって…」
彼はふっと笑った。
「怖くても声を上げられる奴は強い。お前はそういう奴だ。」
私は火の明かりに照らされた彼の横顔をじっと見た。その顔には疲れの色が見えたけれど、どこか温かさがあった。
「それで、侍さんはどうしてこんなところに?」
彼はしばらく黙った後、口を開いた。
「俺か?借金まみれの浪人だ。居場所なんてねぇし、食うものもなかなか手に入らねぇ。」
そう言って笑う姿に、悲壮感はなかった。
「それでも、村を助けてくれて…。どうしてそんなことを?」
彼は焚き火に棒を突っ込みながら、ぽつりと言った。
「そうしなきゃ、俺が俺でいられなくなる気がするんだよな。弱い奴を見て見ぬふりをするのは、侍じゃねぇ。」
その言葉に、心がぐっと締め付けられた。私の小さな世界では、そんな生き方をする人なんていなかったから。
「侍さん、私、いつか強くなりたいんです。侍さんみたいに…自分の声を上げられるように。」
彼は少し目を細めて私を見た。
「強くなりたい、か。それならまず、自分を信じることだ。どんなに小さな声でも、自分を信じて出せば届く。」
その夜、焚き火のそばで話した彼の言葉は、私の心に深く刻まれた。
彼は翌朝、またどこかへ去っていった。姿は見えなくなったけれど、あの言葉が私の中で生き続けている。
「きっと、また会える気がする。」
私の胸に小さな炎が灯った。それは侍がくれたものだと、今でも信じている。
コメント
コメントを投稿