蝉の声が響く夏の夕暮れ、薄暗い草庵で娘・お琴はひとり膝を抱えていた。心の奥底から湧き上がる不安と恐怖に、彼女の体は小刻みに震えていた。
「どうして……どうしておとっつぁんが、あんな賭け事なんかに手を出してしまったんやろうか……」
お琴は胸の内でそう呟くと、ぽたりと一粒の涙が頬を伝った。外から聞こえる近所の子供たちの笑い声が、遠い別の世界のように思えた。彼女の父親は長年、借金を重ねてきた。酒と博打に溺れ、ついに借金取りが家にまで押しかけてくるようになってしまった。昨夜も彼らが家を訪れ、父と低い声で話し込んでいたのを耳にした。そのとき聞こえた「身売り」「娘」という言葉が、お琴の頭の中でぐるぐると渦を巻いている。
「おとっつぁん、ほんまに……ほんまに、あたしを売り飛ばすんかいな……」
畳の上で小さく縮こまっているお琴は、ふと外から近づく足音に気づいた。薄暗がりの中で、襖の向こうに影がさっと横切る。その瞬間、彼女の心は激しく揺れた。
「誰や……?まさか……」
襖が開き、父が現れた。少し酒に酔った面持ちの彼は、お琴をじっと見つめていた。
「……お琴、わしにはお前しかおらんのや」
父の声は低く、どこか悲しげだった。しかし、その言葉の裏には、彼の決意が見え隠れしている。お琴の胸に鋭い痛みが走った。
「おとっつぁん……ほんまに、ほんまにわたしを売るんか……?わたしを身売りさせて、借金を返すんか……」
彼女の問いかけに、父はしばらく黙り込んでいた。やがて重く、辛そうに言葉を吐き出した。
「お琴、わしは……お前を守りたいんや……けど……」
お琴は父の顔を見上げた。彼の目には涙が浮かんでいる。しかし、父の迷いとは裏腹に、彼女の心には覚悟が芽生え始めていた。
「おとっつぁん、あたし……覚悟はできとるよ。借金返さなあかんやろ?わたしがおらな、おとっつぁんが苦しむだけやもんな」
その瞬間、父の表情が歪んだ。だが何も言えずに立ち尽くしている父の姿を見て、お琴はさらに言葉を続けた。
「けどな、おとっつぁん、わたし……本当は怖いんや。知らん男に売られて、見ず知らずの場所で生きていくのが……」
娘の言葉を聞いて、父はついに堪えきれなくなったかのように、その場に崩れ落ちた。
「すまん、お琴……すまん……わしのせいで、こんなことに……」
父が深く頭を垂れて謝罪する姿を見て、お琴の心もまた苦しみに満ちていく。父を責めることもできず、ただ自分がどこか遠くへ行く未来を受け入れようとしていた。その時、彼女の小さな背中にふいに力強い手が置かれた。
「お琴殿、諦めてはいかん」
お琴が振り返ると、そこには近所で「借金侍」と呼ばれている一人の浪人が立っていた。彼は無口で、普段は誰にも関わろうとしない男だったが、借金取りに追い詰められる者たちの噂を聞いては、密かに手を差し伸べていると聞いたことがあった。
「お前の父上の借金、わしがなんとかしよう」
彼の一言にお琴の胸が震えた。見知らぬ浪人の言葉であったが、彼の目には真剣な光が宿っていた。
「ほんまに……ほんまに、わたしを助けてくれるんですか?」
「約束しよう。娘を犠牲にして、父の借金を返すなど、義に反すること。わしが命をかけて、守ってみせる」
浪人の声は低く響き、その言葉はお琴の胸に深く刻み込まれた。彼の背中が広く頼もしく感じられる。お琴は思わず涙を流しながら、浪人の胸にすがりついた。
「ありがとう……ありがとう、ほんまに……」
浪人はただ静かに頷き、彼女の背中を軽く叩いた。
**「借金侍」**
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次の日、朝もやの中で、お琴は浪人と共に家を後にした。畳に座り込んでいる父に、一度だけ振り返って、心の中でそっと言葉を告げた。
「おとっつぁん……あたし、行くで」
浪人はお琴を見つめ、穏やかながらも凛とした声で語りかけた。
「さぁ、お琴殿。借金取りの元へ向かおう。わしの口から話すことがある」
小さな村を抜け、二人は険しい山道を歩いた。林を抜けると、やがて遠くに賭場が見え始める。賭場は異様な静けさを漂わせ、あたりには不気味なほどの重々しい空気が立ち込めていた。
「ここが……借金取りの巣やねんね」
お琴の声は震え、足がすくむ。浪人はそんな彼女の肩に手を置き、軽く頷いた。
「怖がることはない。わしがいる」
彼の言葉は、冷たい風の中でも確かに温かく響き、ほんの少しだけお琴の胸に勇気を灯した。しかし、その先に立ちはだかったのは、無骨な顔をした借金取りたち。彼らはお琴を一瞥すると、にやりと不気味に笑いながら声をあげた。
「おう、これが例の娘か。いい面構えや……そこの侍、関係ない奴は引っ込んでな」
浪人は、静かに彼らに向かって一歩前へ出た。その眼差しには鋭い光が宿り、まるで一刀両断しそうな迫力だった。
「この娘を身売りに出すことはさせん。父親の借金は、わしが肩代わりする」
「へっ、借金を肩代わり?そこの小娘が借金を返してくれるならいいが……お前の金など信用できるか」
借金取りたちが浪人を嘲笑うように睨みつける。だが浪人は微動だにせず、お琴を後ろに隠しながら淡々と続けた。
「約束しよう。今この場で、証文を書き直せ。利息も今後つけず、正当な額だけで返させてもらう」
彼の堂々とした態度に、借金取りたちの表情が変わり、少しの沈黙が訪れた。そして、一人の男が手を叩きながらにやけ顔で歩み寄ってきた。
「いいだろう。ただし……その娘にこの場で誓わせてもらおうか。お前の侍言葉も立派だが、実際に返せなければ、二人ともただでは済まんからな」
お琴はその言葉に顔をこわばらせながらも、浪人のそばで静かに息を整えた。彼女は目を閉じ、決意を固めると、声を絞り出した。
「……わたし、ここで誓います。おとっつぁんの借金は、わたしが返すと。だから、どうか……どうかこれ以上、家族を苦しめんといてください」
彼女の声には震えが混じりながらも、決して逃げないという意志が宿っていた。浪人はその誓いを聞きながら、少しだけ微笑んで彼女を見つめた。
「よく言った、お琴殿。さぁ、もう行こう」
浪人は借金取りの証文を受け取り、無言で一礼するとお琴の手を取り、その場を後にした。二人が村へ帰る道すがら、少し離れた場所からさっきの借金取りの一人が何かを叫んでいたが、もうお琴にはその言葉も届かなかった。浪人の手の温かさだけが、今のお琴の全てだった。
「……あんさん、ほんまに、ほんまにありがとう。あたし、一生忘れんから」
お琴の言葉に浪人は軽く微笑み、彼女の手を優しく握り返した。
「義理に生きる者は、他人に義理を負わせぬものだ。お前が無事であれば、それでよい」
彼のその一言に、お琴はまた涙を流した。侍としての誇りと、彼女への義理と優しさが、その短い言葉の中にしっかりと詰まっているのがわかったからだ。
夕陽が沈む頃、二人は村へと帰りついた。
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