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「おそば屋ケンちゃんですが倒産しそうです」



厨房に立ちこめる、鰹節と醤油が混ざり合った甘辛い匂い。使い込まれて縁が凹んだ巨大なアルミの茹で麺釜が、ゴボゴボと鈍い音を立てて熱湯をたぎらせている。

俺の名前はケンイチ。
俺の名前はケンイチ。


俺の名前はケンイチ。今年でとうとう還暦を迎えた。

かつて、スーパーカブの荷台に岡持ちを何段も重ねて町中を走り回り、すれ違う人たちから「おそば屋のケンちゃん」と親しまれていた男だ。

スーパーカブの荷台に岡持ち
スーパーカブの荷台に岡持ち


昭和の終わり、この町には活気が溢れていた。

大晦日ともなれば家族総出で徹夜で蕎麦を打ち、昼時には近所の町工場や商店からひっきりなしに出前の電話が鳴った。「ケンちゃん、寒いのにご苦労さん!」と、得意先の親父さんから手渡される温かい缶コーヒーが、あの頃の俺の誇りだった。


だが、時代は静かに、そして確実にこの町を変えてしまった。

お得意様だった町工場は次々と取り壊されて駐車場やマンションに変わり、昼休みのサラリーマンたちは、駅前にできたワンコインの立ち食いチェーンや、コンビニの安くて手軽な麺類へと流れていった。

そこへ追い打ちをかけるような、そば粉と良質な鰹節の容赦ない価格高騰。親父の代から頑なに守り続けてきた「二八蕎麦」と「一番出汁」のこだわりは、効率と価格重視の現代において、ただの時代遅れな自己満足になってしまったようだ。


今朝、長年の付き合いがある製粉所の主人から、「ケンちゃん、先月分の支払い、そろそろ頼むよ」と、力無い声で電話があった。

帳簿を開くまでもない。通帳の残高はとうに底を突いている。これ以上、借金を重ねて店を延命させるのは無理だ。


倒産。

親父が汗水垂らして守り抜いた「そば処 ケン」の暖簾を、俺の代で下ろす時が来た。


「親父、すまねえ。俺の力不足だ」


誰もいない厨房で、湯気越しに見上げる天井は、長年の出汁の匂いと油で茶色く変色している。その染みの一つ一つに、この店の歴史が刻まれている気がした。

俺は太い麺棒を握りしめ、静かに息を吐いた。


店を畳む日は決まった。だが、まだ俺は包丁を置くわけにはいかない。

シャッターに「閉店のお知らせ」の貼り紙をするその日まで、俺はここの主だ。たとえ今日一日の客がゼロだったとしても、極上の出汁を引き、最高の蕎麦を打つ。それが、昭和という時代に育ててもらった職人の、最後の意地だった。


トントン、トントン。

小気味良い蕎麦切りの音が、静まり返った店内に響き渡る。


ガラッ。

突然、古びた引き戸が重い音を立てて開いた。


「あの……まだ、お蕎麦食べられますか?」


入り口の土間に立っていたのは、疲れ切った顔をした見慣れないスーツ姿の若いサラリーマンだった。


俺は包丁を置き、前掛けで粉まみれの手をパンと払いながら、腹の底から声を張り上げた。


「へい、いらっしゃい! 空いてる席へどうぞ!」


時代がどれだけ変わっても。

俺は最後の日まで、町の人々のお腹と心を温める「おそば屋のケンちゃん」であり続ける。




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