定年退職を迎えたばかりの村上誠一は、長年勤めた会社を去った解放感と同時に、どこか虚しさを感じていた。仕事一筋で生きてきた彼にとって、退職後の時間は持て余すばかりだった。 そんなある晩、旧友に誘われるままに訪れたのは、駅前の小さなスナック「花椿」だった。店の扉を開けると、やわらかなピアノの旋律と、甘い香りが彼を包んだ。こぢんまりとした店内には、落ち着いた雰囲気が漂い、カウンターには艶やかな女性たちが並んでいた。 「いらっしゃいませ」 ふと顔を上げると、妖艶な微笑みを浮かべるママ・美咲がいた。四十代後半と思しき彼女の艶やかな黒髪と、慎ましやかながらも女性の色香を感じさせるドレス姿に、村上の心は一瞬で惹きつけられた。 「初めてかしら? ゆっくりしていってね」 美咲は優しくグラスを差し出し、村上の隣に腰を下ろす。気さくでありながらもどこか品のある彼女の仕草に、村上の胸は高鳴った。会話を交わすうちに、彼の中で眠っていた何かが目を覚ましていくのを感じた。 美咲の指先が、何気なく村上の手に触れたとき、彼は思わず息をのんだ。彼女の瞳がわずかに潤み、熱を帯びた視線が交差する。 「ねぇ……お酒、もう一杯どう?」 彼女の囁きに、村上は静かに頷いた。グラスの中の琥珀色の液体が、揺らめきながら二人の距離を縮めていく。 その夜、村上は久しぶりに胸の奥が熱くなるのを感じていた??それは、長い年月の中で忘れかけていた、男としての悦びだった。 スナック「花椿」での出会いが、彼の新しい人生の幕開けとなることを、彼自身まだ知らない。 閉店時間を過ぎ、他の客が帰った後も、村上は美咲とグラスを傾け続けていた。店内には静寂が訪れ、僅かに聞こえる氷の溶ける音が、二人の空気をより濃密なものにしていく。 「誠一さん……もう少し、付き合ってくれる?」 美咲がそっと彼の手を取り、奥の小部屋へと誘った。柔らかな灯りがともるその部屋には、シンプルなソファとテーブルが置かれているだけだった。 「……こんなふうに、お店が終わった後に誰かと過ごすのは久しぶりなの」 美咲は村上の隣に腰を下ろし、静かに微笑んだ。その仕草はどこか少女のように儚げで、村上の胸が締め付けられた。彼はそっと美咲の手を包み込み、ゆっくりと顔を近づける。 「美咲さん……俺も、こうして誰かと過ごすのは久しぶりなんだ」 囁くような声...