宵闇に灯る紅提灯の下、私はそっと襖を閉じた。
「今宵はあんたのためだけに、この身を預けよう……」
金屏風に囲まれた座敷の中、わずかに立ち込める白檀の香りが鼻をくすぐる。紅を引いた唇から零れる甘やかな囁きに、客は息を呑む。彼は遠慮がちに私の手を取り、そっと指を絡ませた。
「お前のような女が、この吉原で生きるのは惜しいな……」
そんな言葉、聞き飽きている。でも、この夜だけは、その言葉に心を預けてもいいと思った。男の瞳の奥には、ほんの僅かばかりの真実が宿っていたから。
薄絹の襦袢を滑らせれば、肌に当たる夜気がひやりと心地よい。男の手がそろりと私の肩に這う。指先は迷うように震えながら、慎重に私の肌を辿る。
「遊女に本気になるのは、野暮というものよ……」
微笑みながら囁くと、男は悔しそうに眉を寄せた。その仕草が可愛らしくて、私は少しだけ彼の頬を撫でる。背中に回された腕が、わずかに力を込めた。
「でも、今夜は嘘じゃないだろう……?」
熱を帯びた声が耳元をくすぐる。私はそっと目を閉じた。襖の向こうでは三味線の音が流れ、楼内の喧騒が遠くなっていく。
――せめてこの一夜だけは、夢を見させておくれ。
遊女は恋をしてはいけない。けれど、私の指が彼の襟を解いた時、今だけは遊女ではなく、ただの女でいたいと思ってしまった……。
***
男の指がそっと私の髪を梳く。艶やかな黒髪に触れながら、彼は名残惜しげに頬を寄せてきた。微かな体温が肌に移り、私の心は静かにざわめく。
「お前の香りが忘れられなくなる……」
そんな言葉を、どれほどの男たちが囁いただろう。それでも、彼の声はどこか切なく、胸を締めつけた。
私はそっと彼の手を取り、己の胸元へと導いた。心臓の鼓動を感じさせるように。彼の指が肌の上を彷徨い、ためらいがちに胸の膨らみを撫でる。
「私のことを、今だけは誰よりも愛して……」
そう言った瞬間、彼の腕が強く私を引き寄せた。唇が重なり、熱が交わる。男の欲と、私の作られた愛が溶け合う刹那。遊女の私ではなく、ただの女として彼に抱かれたかった。
月の光が障子越しに揺らめき、二人の影を優しく映し出していた。
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