薄暗い寝室で、私は静かにベッドの端に腰を下ろした。夫を失ってから、何度この夜を一人で迎えただろう。枕元に残る彼の面影に触れながら、私はそっと目を閉じる。
「……寂しいの?」
不意に耳元で囁くような声が聞こえた気がして、私ははっと目を開ける。もちろん、そこには誰もいない。ただ、カーテンが風に揺れ、月の光が揺らめいているだけ。
私は苦笑した。こんなに長く独りでいると、幻聴まで聞こえるのかもしれない。
ふと、胸元に手をやる。夫に愛された日々を思い出すたび、心だけでなく、身体までもが熱を帯びることに気づく。そんな自分に驚きながらも、指先がそっと鎖骨をなぞり、ゆっくりと肌を滑る。
「いけないわ……こんなこと……」
そう呟きながらも、身体は止まらない。寂しさを紛らわすために、ただ眠るだけの夜を過ごしてきたのに。今夜は何かが違う。身体の奥で何かが疼き始める。
突然、ドアの向こうから足音がした。
「……お母さん、起きてる?」
息子の声だった。
私は慌てて手を引っ込め、乱れた呼吸を整えながら答える。
「ええ、まだ……少し眠れなくて。」
「無理しないでね。おやすみ。」
「おやすみなさい。」
足音が遠ざかると同時に、私は大きく息を吐いた。何をしているのだろう、私は。こんなにも心も身体も渇望しているなんて。
窓の外を見上げると、月が静かに微笑んでいるようだった。
翌朝、私は珍しく早く目を覚ました。夜の余韻がまだ身体のどこかに残っている気がする。窓から差し込む朝日が、昨夜の私の衝動をすべて包み込むように優しく照らしていた。
ぼんやりとした意識のまま、鏡の前に立つ。そこに映るのは、見慣れたはずの自分なのに、どこか違って見える。頬がほんのりと紅潮し、唇がわずかに潤んでいる。
「私……こんな顔、してたかしら?」
思わず鏡に指を触れる。夫を失ってから、私は女であることを忘れかけていた。寂しさを理性で押さえつけ、ただ日々をこなすだけの生活。けれど、昨夜のあの感覚は、確かに私の中で何かを目覚めさせた。
そう思うと、胸の奥に小さな火が灯るようだった。
そのままゆっくりとバスルームへ向かう。湯を張り、バスタブに身を沈めると、昨夜の感触がふとよみがえる。静かに目を閉じると、指先が無意識に肌をなぞっていた。
「まだ……私、枯れてなんかいない……」
そう呟くと、湯の温かさとは別の熱が、ゆっくりと身体を包み込んでいった。
バスローブを羽織り、リビングに降りると、テーブルの上に息子が淹れたコーヒーが置かれていた。
「お母さん、昨日あまり眠れなかったんでしょう?」
「あら、気づいていたの?」
「うん。何か考え事してたみたいだったから。」
私はふっと微笑んだ。こんなにも近くで見守られているのに、私の孤独は息子には伝わっていないのかもしれない。けれど、それでいいのだ。母としての私と、女としての私。それを混ぜるわけにはいかない。
「ありがとうね。」
コーヒーを一口含む。苦みとともに、昨夜の感覚がかすかに蘇る。けれど、それを表に出すことはしない。
新しい下着を買おうかしら。ふと、そんな考えがよぎった。今まで、実用的なものしか選んでこなかった。けれど、ほんの少しだけ、女としての自分を取り戻すために。
思い立ち、スマホを手に取る。レースのあしらわれた、少し華やかなデザインのものを探している自分に気づき、くすりと笑った。
「こんなの、私らしくないかしら……?」
けれど、そんな変化を、今の私は心地よく思えていた。
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