亡き夫の着物に包まれて
夜の静寂に包まれた和室。障子越しに揺れる灯りが、淡い影を畳の上に映し出していた。
私は、一人、鏡の前に座る。しっとりとした肌に、絹の襦袢が優しく馴染み、その上からしなやかな黒い着物をまとった。亡き夫のために誂えたもの——彼がこの世を去ってからは、一度も袖を通していなかったのに、今宵、なぜか無性に袖を通したくなった。
帯を締めながら、指先が微かに震えているのがわかる。艶やかな布が胸元を包み込むたびに、心の奥に閉じ込めていた何かがふつふつと蘇る。
「……あぁ、こんなにも……。」
思わず、唇が熱を帯びる。私は長い間、女であることを忘れていたのかもしれない。いや、忘れようとしていたのだろう。けれど、今夜の私は違う。
襖を開けると、そこには待ち人がいた。
「お待たせしました……。」
彼の視線が、私を余すことなく見つめる。その眼差しに射すくめられ、頬が紅潮するのを止められない。
「そんなに見ないで……。」
囁くと、彼は静かに微笑んだ。
「美しいから、目が離せない。」
その言葉に、胸がざわめく。夫を亡くしてからというもの、誰かにそう言われることはなかった。私の中に眠る女の部分が、そっと目を覚ます。
彼の手が伸び、そっと帯に触れる。ほどかれる気配に、身体がこわばる。それでも、不思議と拒む気にはなれなかった。
「この着物……貴女によく似合っている。」
耳元に囁かれ、思わず目を閉じた。かすかな息遣いが肌を撫でる。着物の合わせ目から、冷たい空気が忍び込み、わずかに震える。
夜の静寂の中、二人の影がゆっくりとひとつに溶けていく——。
私は今、確かに、生きている。
彼の指先が、そっと私の頬に触れた。その温もりが、心の奥に灯をともすように広がっていく。長い間、忘れていた感覚——誰かに触れられることの喜びが、静かに心を満たしていく。
「……怖くない?」
囁くような問いかけに、私は小さく首を振る。むしろ、このぬくもりをもっと確かめたい、そんな思いが膨らんでいた。
彼の手がゆっくりと私の肩へと滑り、着物の襟元をわずかに引いた。肌に触れる夜気がひやりとする。それとは対照的に、彼の手は驚くほどに熱かった。
「貴女は、まだ美しい……。」
優しく紡がれた言葉が、胸の奥深くまで染み込んでいく。どれほどの時を、こうして誰かに求められることなく過ごしてきたのだろう。
気づけば、私はそっと彼の手を取り、頬に寄せていた。その手のひらに頬をすり寄せると、まるで遠い昔の温もりに包まれたような錯覚を覚える。
「私……もう、一人じゃないのかしら……。」
ぽつりとこぼれた言葉に、彼はそっと微笑む。その微笑みが、今夜の私の心をそっと解きほぐしていく。
そして、夜は深く、甘く、静かに更けていった——。
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