「艶花の契り――夜に咲く徒花」
吉原の花魁・紫乃は、男を惑わす美しさと妖艶な色香で名を馳せていた。ある夜、馴染みの客ではなく、一人の無骨な浪人が紫乃のもとを訪れる。彼の瞳に映るのは欲望ではなく、どこか翳りを帯びた孤独。そして紫乃は、これまで見せることのなかった"女"の顔を彼に向けてしまう――。
しとやかに灯る行灯の光が、薄紅の帳をぼんやりと染めている。
「お前さん、変わった男だねぇ」
紫乃は扇を唇にあてがい、ふふっと笑った。
目の前の男――名も知らぬ浪人は、最初に酒も口にせず、紫乃の手を取ることもなく、ただ黙って座っていた。
「吉原まで来て、女を抱く気はないってことかい?」
挑発するように紫乃は身を乗り出し、長い指先で男の顎をすっとなぞった。すると、男はゆっくりと目を上げ、寂しげな微笑を浮かべる。
「……俺はただ、お前さんの話を聞きに来た」
「へぇ、あたしの話?」
紫乃は少し目を細めた。
男は酒の入った盃を手に取りながら、ぽつりと漏らす。
「花魁というものが、どんなふうに笑い、どんなふうに泣くのか知りたくなったんだ」
その言葉に、紫乃の胸の奥が微かに疼いた。
客の前で見せる笑顔も、泣き顔も、すべて作られたもの。それが花魁の生きる道。だが、この男は、作り物ではない"本当の紫乃"を見たいと言っている。
「……お前さん、女を口説くのが下手だねぇ」
紫乃は艶やかに微笑みながら、男の隣にそっと寄る。
「こんなことを言われたのは初めてさ。どうしてかね……あたしも、ちょっとだけ、お前さんに心を許してしまいそうだよ」
吐息交じりの言葉に、男は静かに笑う。
紫乃はそっと男の手を取り、その指の硬さを確かめるようになぞった。戦いに生きてきた男の手だ。それなのに、触れた指先は優しく、まるで壊れ物を扱うようだった。
「……抱かれるつもりはないんだろう?」
「ああ……だが、お前さんのぬくもりを感じたいとは思う」
その言葉に、紫乃の胸がかすかに震えた。
「妙な男だねぇ……」
紫乃はそっと寄り添い、男の肩に額を預けた。
外では春の雨がしとしとと降り、吉原の街を静かに濡らしている。
花魁と浪人、決して結ばれることのない二人の逢瀬――。
だが、このひとときだけは、まるで夢のように甘く、切なく、そして――狂おしいほどに愛おしかった。
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