夜の静寂の中、私はそっと膝を崩し、着物の裾を整える。柔らかな絹が肌に寄り添い、ほのかに温もりを帯びる。行灯の灯りが揺れ、障子の向こうには夜風が微かに囁いていた。
「……ねぇ、あなた。」
ふと、私は唇を湿らせ、声を落とす。穏やかで、それでいてどこか妖艶な響きを帯びた声音が、静かな空間に溶けていく。
「今夜は、少しだけ……私の物語を聞いてくださる?」
それは、遠い日の記憶。私がまだ若さの残る頃のこと。紅を引いた唇に指を添えながら、私は思い出す。あの夜、しっとりとした雨の音が庭を濡らし、男の影がそっと私を見つめていた。
「その人はね……私に触れず、ただ、見つめていたの。」
障子越しに交わる視線。その熱に、私は着物の襟元をぎゅっと握りしめた。言葉を交わさずとも、感じることはできた。夜の闇がすべてを覆い隠してくれることを。
「そして、私は……自分から、その人のもとへと歩み寄ったのよ。」
そっと膝を進めるように、私の指先が着物の帯へと伸びる。あの時も、そうだった。すべてを委ねるように、私は肩を預け、息を震わせた。
「触れるか触れないか……その距離が、どれほど甘美なものか……あなたには、わかるかしら?」
そっと瞳を閉じる。過去の情景が、今この場に甦るかのように。心地よい緊張が、胸を締め付ける。
「……ねぇ、あなた。続きを知りたい?」
私は微笑みながら、そっとあなたの方へ身を寄せた。
「その夜、私は静かに彼の隣に座ったの。触れ合うことなく、けれど、互いの気配を感じながら。」
風がふわりと障子を揺らし、静寂の中に雨音が混ざる。すぐそばにあるぬくもりが、私の呼吸を乱していく。
「ふと、彼が手を伸ばしたの。私の髪に、そっと……触れるでもなく、ただ、かすめるように。」
その瞬間、背筋に小さな戦慄が走った。指先ひとつが、まるで言葉のように語りかける。
「それだけで、私は……すべてを悟ったの。」
抗えない心の動き。どこまでも引き寄せられていく気持ち。それは、罪にも似た感覚。
「ねぇ、あなたなら……どうする?」
私はそっと微笑みながら、あなたの瞳を覗き込んだ。
「……私はね、その手をそっと取ったの。」
行灯の灯りが揺れ、影が淡く伸びる。指先が触れ合った瞬間、微かな熱が互いに伝わった。
「彼は驚いたように息を呑んだわ。でも……私の手を振り払うことはなかった。」
静かに寄り添うように、私はその温もりを確かめる。やがて、彼の指が私の手の甲を撫で、ゆっくりと絡みついた。
「言葉なんて、いらなかった。ただ、そばにいるだけで。」
ふと、風が吹き抜け、障子がわずかに揺れる。その音に、私は現実へと引き戻された。
「……ねぇ、あなた。こうして話していると、あの夜がまた鮮やかに甦るの。」
私はそっと微笑み、ゆっくりと着物の裾を正した。
「続きを聞きたいのなら……もう少し、そばにいてくださる?」
彼の手のぬくもりを感じながら、私は静かに息を整えた。障子の向こうから差し込む淡い月の光が、私たちの影を長く伸ばしている。
「その夜、私は……そっと彼の胸に顔を埋めたの。」
鼓動が聞こえた。静寂の中に、二人だけの時間が流れていく。
「彼は、私の肩にそっと手を添え、指先でゆっくりとなぞるの。」
肌の上をなぞる指が、まるで言葉のように意味を持ち始める。そのたびに、心の奥深くが熱を帯びていった。
「ねぇ、あなた。人は、触れることでどこまで満たされると思う?」
私は彼の手を取り、指を絡めた。しっかりと、確かめるように。
「……私たちは、静かに抱き合ったの。」
そのぬくもりが、私にとってどれほどの安らぎだったか。胸の奥に眠っていた感情が、そっと溶けていく。
「夜が深まるほどに……私の心は、ただ彼を求めるばかりだった。」
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