夜、静まり返った一人暮らしの部屋に、微かな異音が響き始めた。最初は、本当に些細な音で、気のせいかと思ったほどだった。しかし、その音は日を追うごとに、徐々に、しかし確実に大きくなっていったんだ。
それは、まるで壁の内部を何かが這い回るような、小さな虫が何かを執拗にかじるような音だった。最初は、ありふれたゴキブリか何かだろうと軽く考えていた。ドラッグストアで強力な殺虫剤を買ってきて、部屋中に念入りに撒いたり、専門の業者に依頼して徹底的に駆除作業を行ってもらったりもした。しかし、どんなに手を尽くしても、不気味な音は完全に消え去ることはなかった。
それどころか、だんだんとその音は、耳障りなノイズのように僕の神経を逆撫でし始めた。まるで、誰かがすぐそばで何かを囁いているような、不快で、ぞっとするような音。
ある夜、ようやく眠りにつこうとした時、その音はこれまでになく大きく、そして鮮明に聞こえてきた。壁の中から聞こえる、無数の小さな足音。そして、何かが蠢き、蠢き、蠢き続けるような、おぞましい気配。
極度の恐怖に駆られた僕は、音の発生源を突き止めようと、震える手で壁に耳を押し当てた。すると、信じられないことに、壁の奥底から、かすかに、しかし確かに聞こえてきたんだ。「虫歯菌に感染してる…」という、途切れ途切れの、囁くような声が。
最初は、その言葉の意味が全く理解できなかった。なぜ虫歯菌が、こんな壁の中から？それに、なぜ僕にそう語りかけるんだ？でも、その謎めいた言葉は、まるで悪夢の種子のように、僕の心の奥底に深く突き刺さり、根を下ろした。
それからというもの、僕はまるで強迫観念に取り憑かれたように、毎日欠かさず歯を磨くようになった。朝昼晩、一日三回、食後には必ず丁寧に歯を磨いた。さらに、歯間ブラシやデンタルフロスも惜しみなく使うようになった。しかし、どんなに努力しても、心の奥底に巣食った恐怖は、決して消え去ることはなかった。
なぜなら、壁の中から聞こえてくる不気味な音は、日を追うごとに、着実に、そして容赦なく大きくなっているからだ。「もっと磨け…もっと…もっと磨け…」と、悪魔のような声が、僕の耳元で囁き続ける。
ある日、いつものように鏡を見て歯を磨いていると、僕は自分の姿に愕然とした。歯茎が、まるで腐敗した肉のように、紫色に変色している。そして、歯の表面には、無数の小さな穴が開いているのを発見した。
それは、疑いようもなく虫歯だった。しかし、それは僕がこれまで経験してきた、ありふれた虫歯とは全く違っていた。まるで、何かに食い荒らされた後のように、異様な形をしている。
耐え難い恐怖に駆られた僕は、藁にもすがる思いで、近くの歯医者に行った。事情を説明し、レントゲンを撮ってもらうと、歯医者はレントゲン写真を見た瞬間、明らかに顔色を変えた。「これは…ただの虫歯ではありません」と、彼は深刻な表情で言った。
歯医者の話によると、僕の歯は、極めて特殊な、そして非常に稀な虫歯菌に感染しているらしい。それは、通常の虫歯菌とは根本的に異なり、人間の神経組織を徐々に蝕み、最終的には精神を完全に操ってしまう、恐ろしい力を持っているという。
そして、信じられないことに、その虫歯菌こそが、これまで僕を苦しめてきた、壁の中から聞こえてくる声の主だったのだ。「お前はもう、決して逃れることはできない…」と、虫歯菌は囁く。
僕は今や、虫歯菌に完全に操られ、まるでゾンビのように、ただひたすら自分の歯を磨き続けている。一日中、狂ったように歯ブラシを握りしめ、歯が擦り切れるまで磨き続ける。しかし、磨けば磨くほど、歯はボロボロになり、崩れ落ちていく。
ある日、鏡を見ると、そこに映っていたのは、もはや見慣れた自分の顔ではなかった。目は血走り、顔色はまるで死人のように土気色。そして、口元には、無数の小さな穴が開き、そこから黒い液体が滲み出ている。
それは、虫歯菌が着実に、そして確実に、僕の体を内部から蝕んでいる、紛れもない証拠だった。「もうすぐだ…もうすぐ、お前は完全に私の一部となる…」と、虫歯菌は勝利を確信する。
そしてついに、その夜、僕は自分の部屋で、誰にも看取られることなく、静かに息を引き取った。まるで、深い眠りについたかのように。しかし、僕の口元には、なぜか不気味な、そして満足げな笑みが浮かんでいた。
そして、僕の死後も、壁の中からは、あの不気味な音が途絶えることなく聞こえ続けている。「また一人、感染した…」
おしまい。
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