あの日の俺は、まさに人生のどん底にいた。仕事をクビになり、アパートの家賃も払えず、財布には小銭が数枚。空腹に耐えかねて入った公園のベンチに座り、ただ空を眺めていた。
「もう、終わりか……」
そうつぶやいたとき、ふと目の前に一羽のカラスが降りてきた。口にはピカピカ光る鍵をくわえている。思わず笑ってしまった。こんな時に鍵なんて。ところがそのカラスは俺の靴先にポトリと鍵を落とすと、どこかへ飛び去ってしまったのだ。
仕方なく拾い上げてみると、近くの古びたコインロッカーの鍵番号と一致していた。半信半疑で開けてみると、中には埃をかぶったトランクケースが一つ。恐る恐る開けると、中から出てきたのは大量の……紙切れ? と思いきや、それは古い株券や債券だった。価値なんてあるのかどうか分からない。けれどその瞬間、何かが始まる予感が胸をよぎった。
翌日、質屋に持ち込むと店主が驚愕の声を上げた。
「おい、これ……本物だぞ。しかも今じゃプレミアがついてる」
結局、その紙切れはまとまった金額に換わった。生き延びるには十分な額だ。だが、それ以上に俺を救ったのは“自分にもまだ運が残っている”と実感できたことだった。
そのお金でとりあえずネットカフェに泊まりながら職探しを始めた。けれど、職歴もスキルも中途半端な俺を雇うところは少なかった。ある夜、途方に暮れて駅前を歩いていると、一人の老人が道端で倒れているのを見つけた。慌てて助け起こすと、「ありがとう」と震える声。救急車を呼び、病院まで付き添った。
数日後、その老人から手紙が届いた。彼はなんと小さな出版社の会長で、礼をしたいから一度会いたいという。恐る恐る訪ねていくと、会長はにっこり笑いながらこう言った。
「君、文章を書くのは好きかね?」
そういえば昔、趣味でブログを書いていた。試しに書いた短いエッセイを見せると、会長は目を細めた。
「なかなかいい。うちで新人としてやってみないか?」
思いもよらない誘いだった。俺は即答した。
編集部での生活は厳しかったが、面白い人々に出会えた。熱血編集者、破天荒な作家、そして取材で出会ったさまざまな人々。彼らと触れ合ううちに、俺の心の奥に眠っていた情熱が蘇っていった。
あるとき、ゴミ山のように積まれた原稿の中から一枚の古い原稿用紙を見つけた。それは若き日の会長が書いた小説の草稿だった。埃を払いながら読んでみると、まるで俺の境遇を写し取ったような物語で、思わず涙が出た。
その小説を現代風にリメイクし、雑誌に連載することを提案した。最初は誰も乗り気ではなかったが、会長だけが「やってみろ」と背中を押してくれた。結果、その連載は思いがけずヒットし、ネットでも話題になった。俺の名前が少しずつ知られていった。
だが運命はさらに奇妙な巡り合わせを用意していた。ある日、講演会に呼ばれた俺は、会場で偶然あのカラスを見かけたのだ。信じられなかったが、その瞬間、なぜか胸の奥で「これでいい」という確信が湧いた。
気づけば俺は、多くの読者に囲まれ、出版社から本を出すことになり、ついには映像化の話まで舞い込んだ。どん底の公園で空を見上げていた自分が、今や人々に夢を与える側になっている。
成功の秘訣なんて大それたものは分からない。ただひとつ言えるのは、思いもよらない出来事を笑って受け止め、そこで出会う人を信じて進んだこと。それが俺をここまで運んでくれた。
だから今日も俺は心の中でつぶやく。
「ありがとう、カラス。ありがとう、会長。そして、ありがとう、どん底の俺」
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